こどもの国線は、かつて弾薬を運んでいたって本当?
ココがキニナル!
こどもの国線は弾薬庫を運ぶ路線だったそう。遺構が残っている?/ローソンの裏のお宅辺りから歩道橋に向かって鉄道柵がある。こどもの国のどの辺りまであった?(浜っ子さん/ナチュラルマンさん)
はまれぽ調査結果!
線路の遺構はほとんど残ってない。コンクリートの柵は戦後の駅誕生時にできた。弾薬輸送用の線路はこどもの国内の中央広場と駐車場の奥あたりまであった
ライター:松崎 辰彦
かつて弾薬庫だった「こどもの国」
青葉区奈良町にある「こどもの国」が戦時中、「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬(てんやく)所」であったことはよく知られており、はまれぽでも過去に取り上げている。
今回のキニナル投稿は、戦時中の名残が現在の「こどもの国」に残っているかどうか検証してほしいとのこと。また当時、弾薬を運んだというそのレールの位置関係についても現代によみがえらせてほしいとのご所望である。
それでは「こどもの国」の来し方について、手短に振り返ってみよう。
青葉区にある「こどもの国」
「こどもの国」の前身――東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所はかつて、弾薬の製造・保管・発送を行っていた。
「こどもの国」正門
全体図(画像提供:こどもの国)
「陸軍のあった相模原に近かった」「地表近くまで粘着性のある固い岩盤があり、落盤の心配が少なかった」「低い丘陵と谷が入り組んだ地形のため、防空上優れていた」といった地形的な特徴が注目され、1939(昭和14)年から建設工事が始まった。1000人の労働者が集められ、山肌を掘ってコンクリートで固め、弾薬庫を作った。ツルハシやモッコという人力による作業であったが、33基の弾薬庫が完成した。
一方で砲弾の製造は1941(昭和16)年11月より開始された。同年12月の太平洋戦争勃発後、中学生や女学生、女子挺身(ていしん)隊などが動員され、最盛期には3000人ほどの人員が働いていたとされる。
1944(昭和19)年、事故があり働いていた中学生6人が死亡した
慰霊碑の説明(クリックして拡大)
若き命が失われたことを悼む(クリックして拡大)
この場所は砲弾の組立工場であり、対戦車砲・高射砲・野戦重砲などが製造されていた。主な作業は填薬(火薬をつめること)だった。
製造された砲弾は弾薬庫に一時保管され、そして戦地に送られた。
園内にはさまざまな弾薬庫がある
コンクリートが重厚である
扉の向こうに何があったのか
当初トラックに頼っていた弾薬輸送を貨車で行うために、横浜線長津田駅と弾薬工場の間で1940(昭和15)年から鉄道の敷設工事が始まり、1942(昭和17)年に開通した。
長津田から出発した線路が途中で二手に分かれ、それぞれ別の場所から敷地内に進入する
経路であった。
長津田駅からこどもの国へと延びる路線は、かつて投稿にある東急こどもの国線の前身である弾薬輸送用の路線として活用されていた。
JR長津田駅(青矢印)とこどもの国線(赤線)(© OpenStreetMap contributors)
1945(昭和20)年の終戦を経て、同地はアメリカ軍の接収を受け、「米軍田奈弾薬庫」として再び砲弾の保管所として機能することになった。
1947(昭和22)年当時の田奈弾薬庫(およそ円内部分。国土地理院より)
このように硝煙の匂い止まぬ田奈弾薬庫だったが、1965(昭和40)年に「こどもの国」へと生まれ変わり、平和の象徴たる子どもたちの笑顔あふれる場所となった。
加えて1967(昭和42)年には弾薬輸送の鉄道を利用した「こどもの国線」が開通した。
時代の荒波とともに姿を変えた、かつての弾薬輸送鉄道。その面影を追ってみた。
2008(平成20)年の「こどもの国」(およそ円内部分。国土地理院より)
コンクリートの柵は遺構か
こどもの国駅は、「横浜市統計ポータルサイト」によると、2018(平成30)年4月月間で乗車人員19万4525人、降車人員19万1959人という無人駅。ここはすぐ近くの「こどもの国」への入り口であり、両親に、あるいは引率の先生方に連れられた子どもたちの歓声あふれる駅である。
こどもの国駅
駅を出ると、目の前にはローソンがある。そしてその背後には、鉄道柵が続いている。
こどもの国駅とローソンが向かい合っている
この柵が戦時中のものではないかというのが、今回の投稿の主旨である。
駅前にあるローソン
裏手に回ると・・・
整然と走るコンクリート製の鉄道柵
弾薬庫時代の遺物なのか
たしかに整然と伸びる頑健な柵は色合いも古く、あるいは戦時中のものかもしれないと思える。この脇を線路が通り、現在の「こどもの国」まで通っていたのだろうか?