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野毛近くにあるお寺「横浜成田山」西参道を辿ると奥深い歴史が見えてきた

野毛近くにあるお寺「横浜成田山」西参道を辿ると奥深い歴史が見えてきた

ココがキニナル!

横浜成田山の西参道を登ると旅館を改装したゲストハウスなど新しい施設ができていますが、旅館の跡地など昭和の歴史を感じるエリアです。昔はどんなところだったか知りたいです。(紅葉坂さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

成田山西参道は明治・大正期には参詣者で賑わう人気の参道として多くの店が建ち並んでいた。震災・戦災を経て特殊な旅館街へと変貌するが、その旅館街も衰退し、今また新たな変化の兆しが見える。

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ライター:結城靖博

正式名称は「成田山横浜別院延命院(えんめいいん)」。またの名を「野毛山不動尊」とも称す横浜成田山は、野毛山の上から桜木町界隈を見下ろす景勝地に位置する。
 

JR桜木町駅から徒歩10分弱で表参道に到着

 
開港後の1870(明治3)年、大本山成田山新勝寺(しんしょうじ)の遙拝所(ようはいじょ)が創建され、1893(明治26)年に「延命院」の寺号を授かり現在に至る。


西参道におもむく前に、まずは同寺の表の顔ともいえる表参道側の様子をちょっと見てみよう。
 
 
 

表参道は超キツイ男坂!


 


2015(平成27)年に完成した彩色鮮やかな新本堂
 

だがそこへ至る表参道は、急な階段が長く続く

 
下の写真は戦前の延命院を表参道側から望んだもの。急階段の様子は今と変わらない。
 


「野毛山不動尊全景」(横浜市中央図書館所蔵)

 
この急坂問題を解決するため、同寺では現在、坂の下から客殿1階までをつなぐエレベーター設置計画が進んでいる。完成予定は開創155年を迎える2025年(客殿から本堂前まではすでにエレベーターができている)。
 


完成済みの客殿から本堂までのエレベーター昇降口(本堂側)

 
こうした急坂の表参道はかつて「男坂」と呼ばれていた。一方、野毛坂交差点の近くから境内へ向かうなだらかな西参道は「女坂」と呼ばれていたという。
 
 
 

「女坂」こと西参道の現在の様子は?


 
京急線日ノ出町駅を出て左へ進めば、ものの5分ほどで野毛坂の交差点に着く。
 


交差点の向こう、レンガ色のビルの左隣りに西参道入り口がある
 

近づくと成田山への案内板が建っていた
 

入り口正面から参道を望む
 

参道に足を踏み入れるとまもなく、右手にこんな旅館を発見
 

もう少し進むと、左手に古民家風のゲストハウスが

 
なるほど、キニナル投稿にあった通りだ。
 


ゲストハウスの向かいの家も古風な門構え

 
その先にはアパートや民家が建ち並ぶが・・・
 


やがてまた旅館の看板が見えてきた
 

だがよく見ると「この前」と記された矢印が
 

矢印の差し示す方向には駐車場があった

 
すでに旅館はなく、看板だけが存在しているらしい。
 


さらに登ると右手にこんなシブいアパートが
 

アパートの向かいに「萬徳寺円廟(まんとくじまどかびょう)」という真新しい建物があり
 

そのすぐ上に成田山が見えてきた
 

登りきってすぐ左手にあるのは延命院ではなく萬徳寺
 

その奥にあるのが延命院だ

 
萬徳寺は延命院とは別の曹洞宗の寺だ。こちらも延命院と同じ1893(明治26)年に静岡県袋井(ふくろい)市からこの地に移り開山したという。
なお「円廟」とは、萬徳寺の室内墓のこと。

こうして紹介すると、そこそこの距離を感じるかもしれないが、実は西参道の入り口から成田山境内まで、立ち止まらずに歩けばわずか1分程度の道のりだ。ところどころに数段の石段があるなだらかな坂道。「女坂」と呼ばれたのも、うなずける。
 


ピンクの線が西参道、オレンジの点線が表参道
(© OpenStreetMap contributors)

 
 
 

明治・大正期の驚きの賑わいを知る


 
西参道の古い歴史は、おそらく成田山に訊くのが一番にちがいない。そう思って問い合わせると、古い記憶を残す関係者はいないので、記録を調べてお答えするとの返事をいただき、後日あらためて延命院を訪ねることとなった。

対応してくれたのは同寺主事の尼僧・小林敬純(こばやし・けいじゅん)さん。小林さんは、貴重な古い資料を探し出し、用意してくれていた。
 


お護摩・ご朱印受付所に詰めていた小林敬純尼

 
その資料の一つ、1903(明治36)年に横浜新報社から出版された『横浜繁昌記』は、当時の西参道の賑わいを活写していた。
道の便利さから男坂より女坂のほうが参詣者には好まれ、女坂の入り口には煙管(きせる)屋、その先に唐辛子、焼付(陶器や布に写真を焼き付けたものか)、髷形(まげがた、髷を整えるための芯)、塩せんべい、造花、玩具などを売る店が並び、その間に1軒の小料理屋と3軒の占いの店があった。さらにその上に5、6軒の茶屋があり、なかでも汁粉(しるこ)屋の「見晴らし亭」は甘酒、桜湯などを供し大いに繁昌していた。
また、参詣者の数は普段でも5000人を下らず、月3回の縁日ともなれば、昼夜を分かたず「参詣の男女踵(きびす)を接して」その数3万人。警官が出動して往来の整理にあたっていたという。

現在でも成田山は初詣には大変な賑わいとなるが、日ごろは閑散としたものだ。ましてや参道に並ぶ店の数は、まるで夢のごとし。

当時の西参道をとらえた写真や絵葉書は見つからなかった。そのかわり、近辺の野毛坂の明治後期から大正期ごろの盛況ぶりを伝える一枚を紹介しておこう。
 


「横浜野毛坂」(横浜市中央図書館所蔵)
 

そしてこれが現在の野毛坂

 
小林さんが用意してくれたもう一つの貴重な資料、1932(昭和7)年発行の『横濱市史稿 風俗編』にも、かつての野毛山不動尊の縁日の賑わいが、前掲書と同様に綴られている。
と同時に、同書では大正初年ごろまで参道に十数軒の縁起物を商う店が並び「百花繚爛(ひゃっかりょうらん)の隧道の如く、一異観を現出して居た」ものの、「順次姿を消し、震災後は全く其景情を止めぬ」ありさまになったことを嘆く一文も加えられていた。

どうやらこの地も、関東大震災を前後して大きく変容してしまったようだ。

なお、小林さんが延命院に来たのは15年ほど前で、そのころの西参道は現在とほとんど変わらなかったという。むろん、戦前・戦後の状況はご存じない。
「お隣りの萬徳寺さんのほうが、世襲で住職をされているので、昔のことがわかるかもしれませんよ」と小林さん。