野毛近くにあるお寺「横浜成田山」西参道を辿ると奥深い歴史が見えてきた
ココがキニナル!
横浜成田山の西参道を登ると旅館を改装したゲストハウスなど新しい施設ができていますが、旅館の跡地など昭和の歴史を感じるエリアです。昔はどんなところだったか知りたいです。(紅葉坂さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
成田山西参道は明治・大正期には参詣者で賑わう人気の参道として多くの店が建ち並んでいた。震災・戦災を経て特殊な旅館街へと変貌するが、その旅館街も衰退し、今また新たな変化の兆しが見える。
ライター:結城靖博
空襲による破壊と戦後の展開
小林さんのアドバイスにしたがい、お隣りの萬徳寺にアポなし取材を試みる。
こじんまりとして落ち着いた趣きの萬徳寺
味わい深い六地蔵。その左隣りの玄関をピンポンする
インターフォンに出た男性に事情を話すと、すぐに玄関に現れた。応対してくれたのは、同寺の副住職・横山和宣(よこやま・かずのり)さんだった。
横山さんによれば、「戦時中、西参道には小さな闇市(やみいち=統制経済下、非合法に設けられた市場)があったと聞いています。しかし、空襲で成田山もこの寺もすべて焼け尽くされてしまいました」という。1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲のことだろう。
「焼け残ったのは、今でも成田山の境内に建つ石碑ぐらいだったそうです」
唯一焼け残ったという石碑
「昔、成田山には塔が立っていたんですが、それもなくなってしまいました」
確かに下の写真を見ると、右側に塔がある。
震災後~戦前期の野毛山不動尊(横浜市中央図書館所蔵)
余談だが、今、同角度から本堂を見ると、塔のあった位置のかなたに、偶然にもランドマークタワーがそびえている。
奇妙なシンクロを感じてしまうのは筆者だけだろうか
話を戻そう。
ようは、大きな寺院さえ跡かたもなく燃え尽きてしまったのだから、参道に建ち並ぶ家屋などひとたまりもなかったろう、ということだ。
ところで横山さんご自身は現在42歳なので、終戦直後の西参道の記憶はない。だが、子どものころの参道の様子はよく覚えているという。
「自分が子どものころは、西参道には旅館が何軒も建ち並んでいました。少なくとも6、7軒はあったでしょう」
なるほど。闇市が空襲で焼失したのち、戦後は旅館街へと変貌していったのか。
「でも、旅館といっても、この辺りの旅館はちょっと特殊なものでした。『発展場(はってんば)』って、わかります?」
「発展場」とは、男性同性愛者の出会いの場のことだ。横山さんによれば、この参道にはそのスジの方々専門の旅館が軒を連ねていたという。
「けれども、平成に入ったころから少しずつ宿が減っていって、今は1軒残っているだけのようです」
その1軒が、西参道に足を踏み入れて初めに目に留まった「旅荘野毛」らしい。
ベランダに物が干されているということは「稼働中」か?
「『旅荘野毛』のそばにゲストハウスがあるでしょう。あそこも昔は旅館でした」
ということは、あのゲストハウスの中を覗けば、当時のこの辺りの旅館内の造りなどがわかるかもしれない。さっそく、ゲストハウスに取材を申し込むことにした。
ゲストハウスFUTARENO(フタレノ)の内部へ
快く取材に応じてくれたFUTARENOは、ともに34歳の若い田中さんご夫妻によって、2016(平成28)年にオープンした。
参道上方から通りを望む。右手の青いのれんの家がFUTARENO
にこやかに出迎えてくれたお二人
玄関から中に入るとこんな感じ
右手を見るとこんな風で
左手を見ると、こう
その左手の応接スペースで、まずはお話を伺う。
かつて1年間バックパッカーとして世界中を回ったこともある旅好きの二人。その際よく利用したのがゲストハウスだったが、当時はまだ自分たちでやるつもりはなかった。
ゲストハウスの夢を抱いたのは帰国後のこと。初めは、蒲田で場所を探していたそうだ。理由は「繁華街が好きだから」。
ところがなかなか見つからず、大学時代に住んでいた横浜にも物件探しを広げたところ、たまたまここを不動産屋から紹介され、気に入ったのだという。
つまり、場所へのこだわりが先にあったわけではなかった。参詣者で賑わっていた時代の話をすると、逆に驚かれてしまったほどだ。
とはいえもちろん、この参道が旅館街だったことはご存じだ。ご主人曰く「なぜ『フタレノ』と名付けたかというと、元の旅館の名が『双葉(ふたば)旅館』で、それと『リノベーション(renovation)』をかけたんですよ」。
では今、宿の周辺にどんな感想を持っているか訊いてみると、「もともと飲み屋街の近くでやりたかったし、野毛は最近若者や外国人にも知られるようになったし、下町な感じが好きです」と答えてくれた。
不動産屋に紹介されたとき旅館は廃業後20年ぐらい経っていて、長らく空き家のままだった。だから、内装は大胆にリフォームしたそうだ。けれども間取りなどの骨格部分には、旅館当時の名残りもまだある。
ゲストハウスの部屋数は6人部屋(ドミトリー)が2つ、2人部屋の個室が3つの計5部屋。お話を伺った後、宿の中の様子を拝見させてもらうことにした。
1階奥に浴室がある。浴室の扉は昔の旅館のままだ
扉のすりガラスに浮かぶ「浴室」の文字に風情あり
浴室の右に洗面台。この辺はリフォームのあとが窺(うかが)える
浴室の左は共用キッチン。いかにもゲストハウスらしい
2階へ続く階段。実はこれが一番印象深い
なぜなら、横幅がとても広いのだ。この階段も旅館当時のままだという。「これなら二人で肩を並べてやすやすと上れる」と妙な納得をする。
2階の吹き抜けの屋根が解放感を引き出している
ただし、これはリフォームの結果。旅館当時はちゃんと天井があったそうだ。
2階にある2人部屋の個室の一つ
こちらは6人共用のドミトリーの一つ
一人旅の人は、たいてい安価なドミトリーのほうに泊まるそうだ。
客層の6割は日本人だという。横浜は大きなイベントが多いので、それに合わせて地方から大勢人が来る。玄関の外は英語の表記が目立つので、てっきり外国人が主だと思ったのに意外だ。
と思いつつ、ひとしきり内部を見て元の場所に戻ると、ちょうどそこへガラガラッと玄関が開いてお客さんが現れた。
日本人じゃないじゃん! そして、お肌の模様を見て「ワォッ!」
二人はカナダからやってきたそうだ。目的は、かの国でも同好の士に有名な戸部にあるタトゥー・ミュージアムを見学に行くため。頭のてっぺんから彫り物で埋め尽くされている。
自慢げに腕まくりして見せてくれた
完全に和テイスト。もはやタトゥーというより刺青だ。だが、これらはすべてカナダで入れてもらったのだという。
というわけで、最後にハードコアな方々にバッタリ遭遇し、けっこうなものを拝見して、FUTARENOをあとにした。
ところで、田中さん夫婦に話を聞いている間、ずうっとカレーのいい匂いが漂っていた。この宿で作っているものかと思いきや、参道入り口にあるカレー店から届く香りだという。
「換気扇が参道の上のほうを向いているんで」と奥さんが笑って言った。
聞けば、実はそのカレー店のご主人こそ、ゲストハウスの建物のオーナーなのだという。だったらぜひ、その方にも話を聞いてみなければ。そう思い店にアプローチしてみた。