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中華街の区画が斜めなのは、風水説ってホント?

ココがキニナル!

中華街がまわりから見ると斜めなのは、中国人が風水思想に基づいて作った街だからというのは本当でしょうか?(minamiさん、yamaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

開港以前に造られた新田のあぜ道にそった区画なので、中国人が風水思想に基づいて作ったわけではない。

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ライター:吉岡 まちこ

どのくらい斜めか確認してみよう



中華街はわずか半キロ四方の広さに600店以上もの店がひしめく、中国人パワーみなぎる街。

中華街の区画だけがまわりの街並みと違い斜めになっているのは、知る人には有名な話。
中国人が風水にこだわって作ったから、ここだけ別世界みたいに斜めになっているんだというウワサがある。でも実際は違うらしいというのが最近の定説。どうして証明されたのか? その根拠を取材してみた。

まず地図で、どれくらい斜めかをチェック。
周囲の道が、海岸線と平行または垂直に作られている中で、中華街だけがキレイに違う向きだ。
 


なるほど、まわりの街並みと45度ズレている中華街(Googleマップより)


実際に歩いていてもなんだか迷路のように感じるし、自分なんて毎度、思った通りの場所に行かれない…。
 


街の中でまっすぐ前を見ると、まわりのビルが斜めにこっちを向いてる
 

まわりの区画との境目では、あちこちでこんな五差路ができてしまう


ところで、最初の地図の方位を見て、あることに気づかないだろうか?
そう、実は、一見斜めに見える中華街こそが方位的にはちゃんと東西南北を向いていて、曲がっているのはむしろまわりの街並みだったのだ。
それで、さすが風水を重んじる中国人が作った町だという説がまことしやかに広まって行ったというわけ。



開港より60年も前に、このカタチはでき上がっていた!?



「中国人風水説が定説になるのはまずいでしょ」と、待ったをかけたのが、横浜開港資料館・主任調査研究員の伊藤泉美さん。
なぜならそこは、中国人が住むよりもずっと前、横浜村の村民が埋立てた新田のあぜ道にそった区画だからだ。

新説が発表されたのは、平成20年1月から開かれていた「ハマの謎とき――地図でさぐる横浜150年」という企画展でのこと。その伊藤さんに直接お話しを聞きに行った。
 


横浜開港資料館の伊藤さんは、子どもの頃から中華街は庭。道に迷うことは「絶対にない」そう!


伊藤さんがまず注目したのは、下の江戸時代末期の嘉永4年(1851年)の地図。
海側から今の関内一帯を見た地図で、下が海、左方向が山手、右方向がみなとみらい方面だ。
このあたりが江戸時代の新田開発で埋立てられた土地だというのは「はまれぽ」でもおなじみ。

太田屋新田の隣、斜めに向いた半月状の土地が、今の中華街の場所にあたる。
そこにはよ~く見ると「横浜新田 寛政九年開発 高七十三石」という文字が。寛政九年(1797年)、つまり開港より62年も前に開発された新田だとわかった。
※下の地図の青字、青線を参考にご覧下さい。
 


江戸時代末期1851年の地図。「横浜村幷近傍之図」部分(横浜市中央図書館蔵)
地図をもっともっと拡大して見てみたいかたは
こちらから


地図上の赤い文字はというと、明治時代に入ってから書き加えられたもので、その後どう開拓したかが書かれているらしい。
たとえば、中華街の前身である横浜新田の左横には、「元町通り」という赤い文字と点線、そして「万延元年掘割 幅十間」という解説。どうやら万延元年(1860年)=開港の翌年に堀割の工事があったらしい。

そこで現在の地図をひっくり返して、角度を合わせてみると――
 

 

開港前の江戸時代の地図(1851年)に現在の地図を重ね合わせる


なんと!今の中華街の道と古地図のあぜ道が、ピッタリ重なるでは!!

そして元町通りの掘割というのが、今の首都高速の下を流れている堀川のことで、太田屋新田と上の沼地との間の川が、今のJR根岸線の下になっていることも一目瞭然!

つまり、開港より約60年も前に土地は造成されていて、少なくとも開港の8年前には今と同じ向きで道があったらしいことがわかった。