富岡総合公園には以前どんな施設があったの?
ココがキニナル!
金沢区の富岡総合公園はかつて米軍施設だったところにありますが、実際にどんな施設があったのでしょう?((-'-)さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
公園丘陵部には米軍により建設、使用されていた施設は無かったようだ!ただ、地中には横浜海軍航空隊によって作られた地下倉庫が存在した。
ライター:二階堂 イズミ
今も残る戦争遺産
前出の葛城さんに現在でも見ることのできる戦争遺産は無いのか伺った。
「一般には公開されてないけど、第一機動隊の敷地に航空隊時代の飛行艇の巨大な格納庫が今でも残っていてね、米軍時代も使われていたし、今も県警の特殊車両用のガレージとして使用されているよ。1936年に横浜海軍航空隊が出来てから今まで80年近く経っている、横浜の貴重な戦争遺産だと思うね」
下屋の壁面にアルファベットが見え、米軍接収時代の面影が残る格納庫
(格納庫は現在、塗装し直されている)
オイルやシンナーなどの危険物収容用のボックス (格納庫内)
格納庫の屋根を支えているのは、なんと柱一本だけ!
また、機動隊の敷地には他にも、飛行艇用の駐機場(エプロン)の劣化したコンクリートや、当時、燃料や魚雷などを格納するため使用されたレールも残されているそうだ。
さらに、公園内には航空隊時代の遺跡も残されている。「浜空神社」というここの航空隊の戦没者約2000人が祭られた神社の跡地や海軍時代の隊門の跡、隊員たちの緊急退避用の地下壕入口などだ。
国道16号線から桜並木を抜けると石の隊門が現われる
「浜空神社」は、もともと横浜海軍航空隊の守り神を祭る神社として航空隊の開設された1936年から存在していた神社である。現在、社殿は横須賀市追浜駅近くの雷神社に移設されているが、公園内には今も当時の慰霊碑が残されており、元隊員やその家族によって管理されている。
ひっそりとした空間が神社だった頃の面影をしのばせる
今も昔の隊員によって結成された「浜空会」の人々が戦没者の慰霊を行っている
のどかな公園風景に、航空隊時代の面影はない
取材を終えて
結論としては、米軍接収時代、公園の丘の部分は特に使用されておらず、当時の痕跡を辿れるものは公園内にはない。
だが、公園に隣接する県警の第一機動隊の敷地では、接収当時の戦争遺産である飛行艇格納庫が今も使用され続けている。こうした戦争遺産の存在を意識したり、公園内の石碑や隊門跡を巡ったりすることで、憩いの場としてだけでなく、かつて軍事基地として使用され、多くの戦死者が出た場所であることを感じ取ることはできるだろう。
横浜は米軍施設が多い街だ。一般の市民が、施設内に入ることはできないが、富岡総合公園のような跡地を歩くことで、日常の中でも平和に生きられる意味を考えることができる。ちょっと意識すれば、そういうことに気付かせてくれる、そういう場所なのだと思う。
― 終わり ―
レイチェルさん
2019年04月15日 14時30分
取材を終えて…のコメントが良かったです昭和39年生まれの私はいわゆる戦争を知らない世代ですが、現代の若者たちは、いや現代を生きる日本人は戦争があったことすら知らないんじゃないか、と思うくらい無関心でいると思います、たくさんの方が犠牲になられ、後世に平和な日本を残してくださったこと、遺跡を訪れ感じるべきだと思いました!
inagさん
2014年04月09日 13時34分
アーチェリー場を管理している方に出土した銃弾を見せていただいたことがあります。アーチェリー場は戦時中には射撃訓練場だった名残で今でも時々見つかるとおっしゃっていました。どおりで射るのに適した環境だと納得しました。
(-'-)さん
2011年12月04日 12時15分
質問者です。調査ありがとうございました。実家が公園の近所ということもあって、再開発される前は遊び場にしてたんですよ。(不法侵入かもしれませんけど)建物に忍び込んだりしてました。小さな映画館らしき施設があったのが印象的でした。70年代初期には戦闘機?の残骸もあって、コクピットに乗ることもできたんじゃなかったかな。実家に帰れば当時の写真もあるはずなんで、往時を知る方がいらっしゃったら懐かしんでみたいですね。