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繭から糸を取る「繭糸(けんし)」取引でにぎわっていた!? 当時の「長津田」の様子について教えて!

ココがキニナル!

かつて長津田には桑畑が広がっていて、現在の駅前付近に大きな「繭糸取引所」があったそうで、蚕の繭が各消費地へと送られていたのだとか。当時の長津田について詳しく知りたいです(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

長津田は、地域一帯に桑畑が広がる農業地帯だった。また「長津田宿」には金融機関や飲食店、呉服店など17の店舗があり、にぎわっていた。

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ライター:橘 アリー

「繭糸取引所」が作られた経緯について



「繭糸取引所」の正式名称は、株式会社長津田繭糸取引所という。
そして、この株式会社長津田繭糸取引所が作られたのは、1923(大正12)年の関東大震災がきっかけであるそうだ。

関東大震災が起こった9月は、ちょうど蚕の繭の取引の時期だった。
関東大震災が起こったことにより、製糸工場は大きな被害を受けて作業が行えず、農家から買い受けた繭が蛾に食い荒らされてしまい、農家へ代金の支払いができない状態になって、農家も大きな損害を被ることになった。

そこで当時、都筑郡の有力者であった金子菊次郎が農家からの強い要望を受けて、1924(大正13)年、長津田に繭生糸の委託販売や生繭(せいけん)の委託乾燥などを行う繭処理施設(=長津田繭糸取引所)を作ることになった。初代社長には金子菊次郎が就任した。
 


当時の様子が伺える資料『わが町の昔と今』
 

1923(大正13)年、長津田繭糸取引所が完成した当時の写真(『わが町の昔と今』より)

 
ちなみに金子菊次郎は十日市場出身で、1928(昭和3)年には、都筑郡乾繭(かんけん)販売利用組合の組合長となり、養蚕農家の不況の打開に大きな力を注いだ人物である。

この施設ができたことにより、養蚕農家は繭を直接、製糸工場に運び込まなくて済むようになるなど、作業効率が上がったという。



長津田繭糸取引所のその後について



その後、1929(昭和4)年には、政府が乾繭の取引を推奨するようになり、繭糸取引所の組織は有限責任都筑郡乾繭販売利用組合と変わり、設備も新しく建て替えられた。
 


このとき建てられたのが写真中央の倉庫(相澤さんの著書『横浜・緑区 歴史の舞台を歩く』より)

 
『激変の庶民生活史 長津田の歩み』という文献によれば、この倉庫は、繭を乾燥して、さらに貯蔵することもできる大きな施設だったそうだ。当時、長津田は一帯に桑畑がある農業地域だったので、この倉庫はこれまでにない大きな建物となり、地域の人々はとても驚いたようである。

倉庫の写真入りの絵葉書が作られるほど注目を浴びた存在だった。
 


倉庫の落成記念に作られた絵葉書(相澤さんの著書、『横浜・緑区 歴史の舞台を歩く』より)

 
なお、現在の様子はというと・・・
 


長津田歴史探訪マップには
 

「乾繭倉庫跡」と記されているが
 

現在、跡地は駐車所になっていて、記念碑のようなものは何もない
 

近くの商店で聞いてみたが、当時の様子は随分と昔のことなので分からないとのことだった

 
話を戻すと、建物が新しくなった1929(昭和4)年ごろから、世界恐慌の影響で生糸価格が暴落し、養蚕農家は再び大きな打撃を受けることとなってしまった。

そして、時代が太平洋戦争に向かうさなか、アメリカの不況の影響を受けて生糸の輸出は不振となっていった。
その後、政府が1941(昭和16)年に蚕糸(さんし)業統制法を公布。産業を改善すべく、蚕糸業は政府によって統制されることに。翌年1942(昭和17)年には、有限責任都筑郡乾繭販売利用組合は解消され、国策会社である日本蚕糸統制株式会社に回収された。

しかし、戦後の不況を背景に日本蚕糸統制株式会社が解散となり統制が解除。1949(昭和24)年には再び乾繭組合が作られた。しかし不況の中、再建は困難であったという。
そして、1950(昭和25)年には組織が神奈川県乾繭販売農業組合連合会と変わり、建物は乾繭と政府の食糧倉庫として利用されるようになり、昭和の終わりから平成の始めくらいのころまで倉庫は使われていたそうだ。その後、取り壊されているが、時期ははっきりわかっていないという。



「繭糸取引所」があったころの長津田の様子について



前述したように、「繭糸取引所」が作られて繭糸の取引でにぎわっていたころの長津田は、一帯に桑畑が広がっていて、静かな農村だった。

しかし、「繭糸取引所」は都筑郡内唯一の乾繭機関であったことにより、都筑郡はもとより鎌倉郡(現在の戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の全域、及び港南区・金沢区・南区の一部)からも、養蚕農家の人々が、荷車・リヤカー・牛車などを引いて争うように持って来ていて、「繭糸取引所」の周辺は非常ににぎわっていたようだ。
 


1923(大正12)年当時の長津田の様子。右後方が長津田駅(『わが町の昔と今』より)

 
また、長津田は江戸時代には宿場町として栄えていたそうだ。「繭糸取引所」と「長津田宿」の位置関係は、1898(明治31)年に印刷された迅速図(地図のようなもの)で確認することができる。
 


1898(明治31)年の長津田を示した迅速図(相澤さん資料より)

 
青い丸の所が「繭糸取引所」で、青い長方形の所が長津田駅、赤色の所が「長津田宿」。

1898(明治31)年当時はまだ「繭糸取引所」は無かったが、「長津田宿」の辺りには商店や民家があるが、「繭糸取引所」が作られた辺りは畑以外には何もなかったようだ。
「繭糸取引所」は、宿場沿いにではなく、「長津田駅」近くの畑の中に作られたことが分かる。

また、繭糸の取引でにぎわっていたころの「長津田宿」の様子は、1928(昭和3)年の「横浜貿易新報」によると・・・
 


この17店が主な商店であるようだ(相澤さん資料より)

 
この当時、17店の商店のうちの2店(2と9)が金融機関であり、このことからも、当時、繭糸の取引が盛んだった様子が伺える。



取材を終えて



「繭糸取引所」の跡地には記念碑のようなものは無いが、「乾繭倉庫跡」として、地域の歴史に名前が残されている。

長津田は交通の便も良い閑静な地域なので、繭糸の取引でにぎわっていた当時の様子を思いながら訪れてみてはいかがだろうか。
 
ー終わりー
 

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  • 『乾繭倉庫』と検索して、ここにきました。大変懐かしく読ませていただきました。金子菊次郎の孫です。私も子供のころ桑の実を食べて、口の周りに色がつき、怒られたのを思い出しました。どこにでもあるものではなかったんですね。祖父につれられて行った養蚕農家の部屋中に響いていた蚕が桑の葉を食べる音も思いだしました。長津田の歴史だったんですね。

  • 何となくは知っていましたが大変勉強になりました。そう言えば子供の頃クワの実を食べてたのを覚えています。今も地元の小学校では蚕を飼育する授業があります、餌の桑の葉を捜すのに苦労しました。この周辺はどこにでも生えてるものと思ってましたが

  • 長津田の「繭糸取引所」の跡地のレポートありがとうございました。相澤さんの解説たいへん参考になりました。富岡の世界遺産に絡んで絹の道が話題になりました。直ぐ長津田を思いだしましたが、現在はどうなっているか気になりました。明治の総合遺産として、このレポートのエキスを現地やマップに残しておいて欲しいと思います。

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