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地元の人は意外と知ってる!? 港南区へ伝わる伝説、横浜刑務所のそばにある「鰻井戸」ってなに?

ココがキニナル!

横浜刑務所の近くに「鰻井戸」なるものがあり、通るたびに気になっています。看板が立ってはいるのですが、あっさりとしか書かれていないので、是非、調べてください。(しげさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

鰻井戸は病にかかった北条実時が、観音様のお告げで2匹の鰻が住んでいる井戸の水を飲んで快復したという内容の港南区に伝わる昔ばなしの舞台だった。

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ライター:橘 アリー

井戸は大きな土管のような様子だった!?



「鰻井戸」は港南区の昔話として『こうなん道ばたの風土記』『ふるさと港南の昔ばなし50話』などの資料に、井戸のところにある案内板とほぼ同じ内容が記されている。

また、港南区の歴史や文化の調査や資料の編集発行などを行っている「港南区歴史協議会のホームページ」でも、音声で鰻井戸の話を聞くことができる。このように鰻井戸は港南区に伝わる昔話であるが、物語に登場する北条実時は実在の人物であるので、史実と照らし合わせて内容をみていこう。

北条実時は、北条氏が将軍にかわって執権(しっけん、将軍を補佐して政治を行う役職)とし鎌倉幕府を支配していた時代に、武蔵国六浦庄(むさしのくにむつうらしょう、現在の金沢区)の支配を任されていた金沢北条氏の初代とされる人物である。

実時は、かしこい子どもだったので、わずか11歳で将軍の身の回りの世話をする小侍所別当(こざむらいべっとう)という重要な仕事を任された。また、学問にも一生懸命に取り組み、多くの書物の収集もしていたそうである。
 


北条実時の像(神奈川県立金沢文庫発行『北条実時』より)


なお、お話の中に「金沢(区)の城(館)で療養していた」とあるが、その場所は実時が建てた称名寺(しょうみょうじ)の横にあったようである。ちなみに称名寺に関してははまれぽでも過去にいくつか取材している
 


現在の地図。こちらが金沢区にある称名寺の場所


また実時が集めた書物を保管する場所として、称名寺と城(館)の間に作られたのが、現在の金沢文庫である。
「鰻井戸」は昔話であるが、勉学にも勤しみ、お寺を建てるほど信心深かった実時であるから、夢枕に観音様が現れたというのもありえない話では無いのではないか。

なお、1275(健治元)年5月に病気になったのは事実だが、その後、お話のように一時快復したかどうかは不明である。実時はその後、1276(建治2)年10月23日に亡くなっている。ちなみに実時の病気は『かねさわ人(びと)物語』(発行:金沢区役所区政推進課)によると、蒙古襲来(1274〈文永11〉年の文永の役)で心身共に疲れ果てたため、となっている。
 


称名寺内の様子


実時が療養していたのは現在の金沢区であるが、港南区笹下の「鰻井戸」のある場所は「かねさわ道」と呼ばれた古道で、鎌倉時代には重要な道であった。

続いて、井戸に関する縁起書があったという三河屋について。
資料『関の郷土史』によると、三河屋は旅館であったようである。先述の縁起書(『関の郷土史』では由来書となっている)は、いつのころか失ってしまったとのこと。

また、井戸が発見された鎌倉時代には、井戸の回りは、辺り一面に草や木が生い茂っていて、家も無かったそうだが・・・
 


明治時代にはこのようになっていた。赤丸のところが「鰻井戸」(『関の郷土史』より)


現在は囲われて見ることができないが、その昔の井戸は、大きい土管のようなもので清水がこんこんと湧き出ていたそうである。

井戸の由来について書かれている縁起書などはすでに失われていて、鎌倉時代以前、いつ、だれが、何のために作ったのかは不明。この地域は、一面が田んぼだったようで、井戸にウナギが泳いでいたということから、あくまでも推測だが、もしかしたら、田んぼに水を引く設備のようなものだったのかも知れない。

なお「縁起書は今は失われている」と『関の郷土史』に書かれているが、井戸の看板が設置される元となった『金沢文庫の研究』は縁起書を元に書かれたものだ。

そこで、金沢文庫に問い合わせてみた。

1951(昭和26)年当時、横浜市立大学で医学の歴史を研究されていた石原明(いしはら・あきら)教授が、この縁起書の写しを持っていて、関靖氏は石原教授からそれを見せてもらい『金沢文庫の研究』を書いたとのことである。
 


『金沢文庫の研究』を執筆した関靖氏『開港のひろば第124号』より


現在は不明になっている縁起書は、1951年には写しが存在していたことになる。縁起書が1951年まであったということは、おとぎ話のような「鰻井戸」の伝説も実話としての信ぴょう性が高まってくる。

ウナギは、昔は神様の使いとされていたそうで、そんなところから、この話が出来たのかも知れないと金沢文庫の西岡さんが話してくださった。

ウナギは神様の使い・・・。
ウナギと聞いて、記事冒頭でかば焼きを想像してしまったのが、ちょっと恥ずかしい・・・。
 


土管のような「鰻井戸」の様子(『関の郷土史』より)




取材を終えて



『関の郷土史』には、明治時代まで、井戸にウナギがいるのを見た人もあると書かれていた。

この地域は、宅地として造成される前は田園地帯で川の水もキレイだったそうである。
宅地として造成された後、笹下川の水は水質が悪くなっていった。しかし最近は、地域で川の掃除をするなどの努力を重ね川の水もかなりキレイになってきたようだ。
 


現在、ウナギはいないようだが、水は確かにキレイである


もしも「鰻井戸」の水が枯れておらず笹下川と繋がっていたとして、そして、キレイになった笹下川にウナギが住むようになったら・・・
 


「鰻井戸」に再びウナギが住むかも!?


川の水がキレイになれば、井戸の中を泳ぐウナギを見られる日が来るかもしれない。


―終わり―
 

参考文献
港南区歴史協議会「北条実時とうなぎ井戸」
http://www19.atwiki.jp/konanrekishi/pages/108.html
 

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  • 追加ですが、笹下の方から日野を通って旧七曲がりを越え、本郷の石橋を渡り鎌倉に至る「鎌倉街道」は町田市域にある「鎌倉街道」につながっているのでしょうか・これも気になる旧街道名です。

  • この記事にある写真に「笹下釜利谷街道」の表示がありますが、昔、父から聞かされていた街道名は「三崎街道」と呼ばれ、三崎と江戸を結ぶ街道で、トンネルが無い時代には能見台を越えていたそうです。従って杉田や屏風浦は船を使わない限り、この三崎街道に峠越えで出たので、いわば三浦半島の幹線道路であったとのこと、だから笹下に「関」があり、杉田の村が上中里側まで出張って、杉田村の庄屋は三崎街道と杉田に抜ける旧道との交差点に位置していたそうです。三崎街道の経路といつその名前が無くなったのか、調べて頂ければ幸いです。

  • 橘アリ- 様、港南歴史協議会として、文献紹介に留まり、折角の地域の方々への聴き取り、調査にご協力できなくて、申し訳御座いませんでした。地域の人達の高齢化により、昔からの言い伝えを知る人達が少なくなってしまいました。この様に纏めて下さり、感謝申し上げます、

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