戸塚区の品濃一里塚が県の史跡どまりとなっている理由は?
ココがキニナル!
東海道の一里塚は戦後の都市開発でほとんど消え、場所すら特定できないものも。静岡は左右とも残るのは国の史跡レベルなのに戸塚の品濃一里塚は左右とも残っていてどうして県の史跡?(taigaa001さん)
はまれぽ調査結果!
貴重な一里塚なのは間違いないが当時のまま左右とも残っていると言えるのかは微妙。県の史跡なのは道路や一里塚の管轄の違いによるものと推測される
ライター:中田 淳也
改めて史料を見直してみると・・・
ここまで品濃一里塚の歴史についてまとめてきたが、調べていくうちに史跡の指定に関してもっとシンプルな理由の可能性に思い至ることになる。先に書いたとおり、品濃一里塚は新道(国道1号線)の開通以後の長い間“放置”されており、昭和30年代に周辺の開発が進んだことによってその保存が課題となった。そして、ようやく史跡に指定されたのだろうということはある程度想像がつく。
同じような内容の回答は前出の国指定史跡一里塚の関係者に問い合わせた時にもいただいており、一里塚のように町中にある史跡の指定のタイミングは「開発と保存」がキーワードになっていると言える。
周辺は住宅地の現在の品濃一里塚(Googlemapより)
ここで一里塚が史跡として登録される流れを簡単に説明しておくと、まずは文化財としての価値や範囲を明確化するための調査が行われる。これが遺跡とかであれば発掘・発見した団体が中心となって国や都道府県などとともに調査を行うのであるが、一里塚の場合は「発見」されたものではないので、調査は周辺の開発時に当事者となっている団体が行うこととなる。また、地権者の同意を得る必要もあるので、一里塚の部分を誰が所有していたかということも史跡の指定に関わってくることになる。
品濃一里塚の場合、当時の地権者が誰かということは把握できなかったが、先述のとおり平戸側の開発を神奈川県と大洋不動産が中心になって行ったことから、県によって調査が行われ、県の史跡として登録されたと考えられる。
そして、国道1号線は旧東海道のルートを基準にして整備されていたことから確認してみたところ、国の史跡となっている一里塚はすべて指定当時に旧東海道が国道1号線として使用されており、その後、新道(バイパス)の開通によって市道に移管されていたことが分かった。
参考資料として、1936(昭和11)年に国の史跡になった阿野一里塚の周辺地図を掲載する。こちらの現国道1号線(黄色で示された道路)は1956(昭和31)年に整備されたもので、それ以前は旧東海道(現国道と並行する道路)が国道1号線として使用されていた。
阿野一里塚地図(GoogleMapより)
ほかの県や市の史跡となっている一里塚について確認していないので全ての事例が該当するとは断言できないが、少なくとも国史跡の3ヶ所と品濃一里塚に限って言えば、国の史跡になるかならないかの違いは一里塚に接する道路が国道であったかそうでなかったかの違いであると言うことができる。
これならば塚の残存状況が片方のみでも国の史跡となり、見解に多少の疑義はあるものの両方残っていても国の史跡ではないという状況についても説明がつきそうだ。
取材を終えて
「県の史跡どまり」という投稿者の文面からは国の史跡の方が県の史跡よりも史跡としての価値が高いという前提(認識)が読み取れる。事実、筆者自身もそのように考え、途中まではその前提で調査をしていた。
しかし、“一里塚に接する道路が国道であったかそうでなかったかという違いである”という結論に従った場合、国と県の史跡の違いは史跡としての価値の高低ではなく、携わった当事者の違いということになるかと思われる。
多少話が飛躍するかもしれないが、近年、ブームと言えるほどに登録数が急増している日本の世界遺産について、その歴史的価値が本当に評価された上での登録なのか、品濃一里塚について調査しながら改めて考え直してしまうのであった。
―終わり―
参考文献
「戸塚区郷土誌」(戸塚区観光協会・昭和43年)
「ひらど」(横浜市立平戸小学校・昭和56年、平成3年)
「保土ヶ谷宿から品濃坂まで わたしたちの境木」(横浜市立境木小学校郷土誌編集委員会・昭和52年)
「戸塚区の歴史(下巻)」(戸塚区観光協会・昭和56年)
「記念物の保護のしくみ」(文化庁文化財部記念物課・平成22年)
レィレィさん
2023年06月05日 12時31分
おじいちゃんが昔話してたんですが·····権太坂やあのあたりは急坂が何個もあり昔の旅人や馬が一里塚あたりで息絶えてしまったそうです。そこで近くに井戸を掘りそこに息絶えた人馬を投げ入れていたそうで·····未だに幽霊伝説もあるそうです。それとこれとはまた違うお話しですね〜すみません
志うまいさん
2022年04月11日 00時07分
平戸小OBです。懐かしい資料ばかりですが、2022年4月8日に懐かしく思い久々に東海道を散策しましたが、焼餅坂も、一里塚も、すっかり姿を変えており、今は公園になっていました。ネット上で「まだある」と言う話もあり、調べたところこの記事に巡り合いました。何故、一里塚が姿を消してしまったのか、いつの事かがあまりはっきりしていないので、再取材をお願いします。
rumoさん
2018年04月14日 18時34分
非常に丁寧に調べられていて面白かったです。「~一里塚について記載された最も古い書籍は~」←このたった1行ほどの報告の陰には膨大な作業があったことでしょう。一方で、本来ならば、こんなことは記録が残されているべきことなのに、と残念でなりません。はまれぽを読んでいると、役所などの「なにしろ昔の話なので…」とか「もう○十年もたちますから…」とかいうセリフをよく目にします。たかだか数十年、中国やエジプトの古代史じゃあるまいし、それでさえ重要な出来事なら巻物や石板が残っているケースも多いのに…。「○十年が経過すると廃棄する」などといった文字通りのお役所仕事な価値観は中身の重要度に及ばない、ということでしょうか。しかし、デジタルデータが主流の現代では、その点も改善されるのでしょうかね?超鮮明な4K映像とかで「歴史」を振り返ることができるなんて、それはそれで楽しみですね(生きていられれば…)。