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横浜にかつてあった伊勢佐木町・馬車道の映画館の歴史とは? ~戦前編~

横浜にかつてあった伊勢佐木町・馬車道の映画館の歴史とは? ~戦前編~

ココがキニナル!

横浜にかつてあった映画館、例えば関内アカデミーとか、伊勢佐木町東映とか・・・たくさんありますが、その歴史を整理してほしいです(ossangenerateさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

伊勢佐木町・馬車道通りの映画館史をたどっていくと、日本の映画館の歴史そのものが浮き彫りになっていく。事の始まりから歴史の全貌をとらえるべく、今回は黎明期から戦前までを深掘りする!

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ライター:結城靖博


1970年代初めに中学生だった筆者が映画好きの少年になったのは、学校が伊勢佐木町から遠からず、かつ、そこへ京急を使って通っていたことと無縁ではない。

当時の京急・日ノ出町駅のホームの壁には、近くの映画館で上映中の映画のポスターがずらりと貼られていた。学校帰りの電車待ちの時間、いつもそれらをしげしげと眺めて過ごした筆者の姿は、きっと昭和30年代に撮られた下の写真のようだったにちがいない。


「馬車道東宝会館前で映画広告に見入る新聞配達の少年」(石田榮一氏撮影・提供、横浜市中図書館所蔵)


東京オリンピックなどを経て60年代に一気に茶の間に普及したテレビに席巻され、すでに「斜陽産業」と呼ばれつつあった映画業界だったが、70年代の伊勢佐木町・馬車道はまだまだ映画館でいっぱいだった。そんな印象がある。

ちなみに全盛期の50年代には、約40軒もの映画館がこの地にひしめいていたという。

なぜそんなにも多くの映画館が、この界隈に林立することになったのだろう。その謎を探るために、まずは専門家に意見を求めた。



横浜の現代史に詳しい識者からお知恵を拝借




訪ねたのは、馬車道にある神奈川県立歴史博物館。


さすが旧・正金銀行、威風堂々たる建物だ



対応してくださった同館学芸員の武田周一郎(たけだ・しゅういちろう)さん


武田さんの背後にあるのは、横浜東宝会館最後の上映作品、市川崑監督の『かあちゃん』の看板と、同館館内に設置されていた「スカラ座」の案内板だ。わざわざ今回の取材のために、取材場所の会議室に用意してくれていた。


これを見ただけで懐かしさがこみ上げる人もいるだろう(神奈川県立歴史博物館所蔵)


そのほか県立歴史博物館には、同じ馬車道沿いにあった横浜東宝会館や横浜宝塚劇場の貴重な写真資料が残されている。今回快くご提供いただくことになったそれらの写真は、このあと編年的にたどる記事の中で紹介したい。

武田さんは映画史がご専門ではないが、横浜の現代史を研究テーマにしている。その観点から、取材に役立つ重要な文献を教えてもらい、また時代的なエポックについてもご意見をいただいた。
本稿はそれを手掛かりに、伊勢佐木町・馬車道界隈の映画館史をたどっていく。


終始丁寧にご対応いただいた武田さんは、最後に玄関まで見送ってくれた




そもそもなぜ横浜に映画館がたくさんできたのか?





その答えは、開港期にさかのぼる。


五雲亭貞秀作『横浜弌覧之真景』部分(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵は1871(明治4)年に描かれたものだ。筆者の加工による赤丸箇所は、関内と関外をつなぐ吉田橋。橋の右斜め上方が馬車道で、左斜め下方がのちの伊勢佐木町だ。

この絵が描かれる5年前に、開港場で大火があり、現在の横浜公園内にあった港崎(みよざき)遊郭が吉田橋付近に移され吉原遊郭となる。同時にそのとき、横浜初の芝居小屋「下田座」が遊郭のそばに生まれた。

下田座は上の絵の前年に羽衣町に移転し「下田座さの松」と名を変え、さらに1882(明治15)年に「羽衣座」と改称する。この芝居小屋こそ、横浜のその後の劇場・映画館史の始まりを告げる場所だったのだ。


「下田座さの松 芝居番付」(横浜市中央図書館所蔵)


吉原遊郭は明治4年にまたしても大火で焼失し、遊郭街は高島町に移る。それを契機に、吉田橋周辺は老若男女が気軽に足を運べる庶民の遊興地へと姿を変えた。

1874(明治7)年、「伊勢佐木町」という町名が生まれ、その後この地域に芝居小屋や寄席、あるいは射的や玉突きなどのゲーム場が集まり、横浜随一の盛り場となっていく。

特に現在の伊勢佐木町3丁目付近には、明治中期以降劇場が乱立する。もっとも、その頃はまだこの界隈は「賑町(にぎわいちょう)」という町名だったが。

下は武田さんにご教示いただいた文献『シネマ・シティ ―横浜と映画―』に掲載されていた資料をもとに作成した、1900(明治33)年頃の伊勢佐木町界隈の劇場分布図だ。


『今昔マップon the web』より加工(基図測量=明治39年)


小さくて見づらいと思うが、地図のほぼ中央にある吉田橋の南西側(つまり伊勢佐木町付近)に7つもの劇場がある。少し離れた横浜公園そばの港座も、あとで触れる歴史的に重要な場所なので加えておいた。

既述した羽衣座の位置もわかるが、「喜楽座」と「賑座」が建つ辺りが当時の賑町だ。


「横浜賑町喜楽座」(横浜市中央図書館所蔵)


この頃の喜楽座前の様子を活写した絵葉書から、文字通り町のにぎわいが想像できるだろう。横浜を代表する劇場だった喜楽座では、一流の役者を揃えた大歌舞伎が演じられていたという。

こうして明治中期までに伊勢佐木町周辺は、歌舞伎を中心に新演劇や翻訳劇なども上演する劇場街を形作っていく。それが、のちにこの町を国内有数の映画館街へと変えていく大きな土壌となる。

いっぽうその頃、馬車道はこんな様子だった。


「手彩入絵葉書 横浜馬車道通り」(横浜市中央図書館所蔵)


明治中期の馬車道を紹介した絵葉書で好んで取り上げられた構図だ。

「〇に竹」の印が目を引く立派な建物は「富竹亭(とみたけてい)」。1885(明治18)年、吉田橋際に落語寄席としてオープンする。その後3階建てに改修され義太夫の寄席となり、1912(明治45)年に老朽化で取り壊されるまで、馬車道を象徴する存在だった。



劇場街に映画がやってきた




1895~96年にかけて仏・リュミエール社の「シネマトグラフ」、米・エジソン社の「ヴァイタスコープ」が公開されると、早くも翌1897(明治30)年には、日本にも「シネマトグラフ」が輸入・公開される。2月15日の大阪・南地演舞場を皮切りに、横浜でも翌月には上映された。その最初の場所が、前記した横浜公園そばの「港座」だったのだ。

とはいえ初期の上映スタイルは、「カツドー屋」がフィルムを抱えて都市の劇場や地方の寺社を巡回するというもの。内容も風俗や出来事を伝える実写フィルムだ。しかし、その映像が大衆の心を掴むきっかけになったのが、日露戦争(1904~05年)の戦勝報道だったという。


「横浜活動大写真会広告」(横浜市中央図書館所蔵)


さらに明治後期になると、海外で制作され始めた劇映画を輸入・上映する常設館も徐々に生まれていく。海外からの輸入品であったわけだから、国際貿易港を持つ横浜に地の利があったことは言うまでもない。

加えてこの時期、伊勢佐木町には変貌せざるをえない事件が起きる。1899(明治32)年に雲井町を火元に発生した大火だ。これによって、それまでの劇場や寄席のほとんどが焼失する。しかし被災後、道幅は8間に拡張し、建物の再建も速やかに進み、刷新した劇場街はさらに活況を呈していく。


「横浜伊勢佐木町通(松ヶ枝町)」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書は大火復興後と思われる伊勢佐木町通りだ。明治後期から大正初期と推定される。広々とした道沿いに芝居小屋の幟がいっぱいだ。

下の地図は、前出の『シネマ・シティ ―横浜と映画―』の資料をもとに作成した、1915~20(大正4~9)年頃の伊勢佐木町界隈の劇場と映画館の分布図である(注:他の資料によれば、大正4年に「賑座」は「朝日座」に改称されている)。


『今昔マップon the web』より加工(基図測量=大正11年)


赤が映画館、黄色が劇場だ。劇場街から映画館街への変貌の過程がうかがえると思う。その中で、老舗の喜楽座はまだ劇場として存在しているが、映画にも積極的で、実演とフィルムを織り交ぜた「連鎖劇」を試みていた。

また、明治30年代の分布図にはなかった「オデヲン座」という、いかにも映画館らしい名前も見える。「横浜角力(すもう)常設館」が映画館として扱われているのも面白い。


「横浜伊勢佐木町通」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書は大正中期頃と推定される賑町の風景。塔のある建物が、「又楽館(ゆうらくかん)」だ。同館は邦画中心の映画館だった。前掲の分布図に基づけば、又楽館の手前が賑座、そしてその手前の敷島館も画面に入っているようだ。オデヲン座は、又楽館の陰に隠れて見えない。

なお、大正期に入ると、国内でも劇映画の制作が始まる。むろんまだサイレントで弁士が大活躍した時代だが。そして「目玉の松ちゃん」の愛称で一世を風靡する尾上松之助(おのえ・まつのすけ)のような映画スターも誕生する。

だが、本稿ではあくまで「映画館」史に絞って先へ進もう。



再び災害が映画の街をたくましくする




1911(明治44)年に開館したオデヲン座は、輸入映画を全国に先駆けて上映し、日本を代表する映画館のひとつになっていく。「封切」という言葉も「映画ファン」という言葉も、オデヲン座から生まれたと言われている。


大正期のオデヲン座番組表(横浜市中央図書館所蔵)


同館が象徴するように、大正期に映画館街として大きく発展した伊勢佐木町界隈だったが、それもある日の大災害でまたもや一瞬にして消滅する。

その災害とは、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災だ。


「伊勢佐木町付近ノ惨状」(横浜市中央図書館所蔵)


巨大地震は横浜全市に壊滅的な打撃を与え、伊勢佐木町界隈の劇場・映画館もすべて崩壊した。だが、この地域の復興は他に抜きんでて早く、うちひしがれた庶民の心に活力を与えることになる。

オデヲン座は早くも翌年1月には興行を再開し、アメリカ映画の大作『世界の心』を上映する。


オデヲン座『世界の心』プログラム(横浜市中央図書館所蔵)


また、他の施設もこれに前後して次々と再建を果たし、昭和に入ってこの地域はさらに「シネマ・シティ」として一段階飛躍を遂げることになる。

この頃この地域に映画館が発展したのは、日本全体が最初の映画黄金期を迎えたこととも関係するだろう。「チャンバラ映画」と、いよいよトーキー時代に入ったハリウッドの輸入映画。それが昭和初期の大衆の心をとらえた。


「(復興せる横浜)伊勢佐木町通り朝日座前」(横浜市中央図書館所蔵)


「朝日座」とはかつての「賑座」のこと。大正時代にすでに名前を変えていた同館は、改名当初は演劇公演もあったが、この頃には、ほぼ映画館として機能していたようだ。

下は1936(昭和11)年に新築されたオデヲン座。鉄筋コンクリート4階建て、冷暖房完備! いかにも「洋画の殿堂」にふさわしい姿だ。


「(大横浜名所)伊勢佐木町通り」(横浜市中央図書館所蔵)


続く写真の左手前に見える建物は、昭和初期の喜楽座だ。前掲した明治期の「横浜賑町喜楽座」の絵葉書と比べると、再建後の建物は幾何学的で、やはりモダンな造りに変わっている。


「横浜の景観 太平洋岸に輝く大商港」(横浜市中央図書館所蔵)


1931(昭和6)年当時の伊勢佐木町界隈の映画館分布図を『シネマ・シティ ―横浜と映画―』をもとに作成すると、次のようになる。


『今昔マップon the web』より加工(基図測量=昭和6年)


震災前と比べると、施設数はちょっと少なくなったようだ。震災後再建できなかったところもあるのだろう。だが、老舗の芝居小屋だった「羽衣座(羽衣館に改名)」、「賑座(朝日座に改名)」、「喜楽座」を含めて、すべてが赤い。つまり映画館に転じている。

オデヲン座の隣りには新たに「世界館」という映画館もできている。また「横浜角力常設館」から、さすがに「角力」の文字が取れていることにも時代を感じる。

昭和6年といえば、すでに震災復興も遂げ、都会にはモダンガール・モダンボーイが溢れる「昭和モダニズム」の時代だ。
2枚上の喜楽座前の絵葉書に「旗幟翻る伊勢佐木町の歓楽境」と印字されている通り、映画館のたくましい復活にけん引されるように、伊勢佐木町の街全体が盛り場として戦前の全盛期を迎える。


「国際都市横浜の景観 伊勢佐木町通りの夜景」(横浜市中央図書館所蔵)


ネオン輝くこの写真は、昭和10年代の伊勢佐木町だ。
復興間もない1928(昭和3)年には、賑町や松ヶ枝町が伊勢佐木町に統合される。そして、「銀ブラ」を真似て「伊勢ブラ」という言葉が生まれたのもこの頃のことだ。

ちなみにオデヲン座では、震災直後から『オデヲン座ウイークリー』という洒落た週報を発行する。この冊子は、第2次世界大戦勃発の翌年(1942年)まで続いた。


『オデヲン座ウイークリー No.687』1938年(横浜市中央図書館所蔵)


「映画見ましょか、お茶飲みましょか」と歌った『東京行進曲』の主題歌が作られたのは1929(昭和4)年のこと。まさにこの歌詞を地で行くようなモガ・モボたちが映画館のリーフレットを小脇に抱えて伊勢佐木町を闊歩していたのかもしれない。

いっぽう、馬車道もまた、震災後しっかりと復興を遂げていた。


「(大横浜名所)吉田橋ヨリ馬車道通ヲ望ム」震災復興期(横浜市中央図書館所蔵)


1935(昭和10)年、この通り沿いの住吉町付近に「横浜宝塚劇場」ができる。ここでは宝塚歌劇団の公演はもちろん、歌舞伎や新国劇など他ジャンルの舞台や映画上映も活発に行われていた。


1937(昭和12)年の横浜宝塚劇場前の様子(神奈川県立歴史博物館所蔵)


劇場前は「押すな、押すな」の大盛況である。写真をよく見ると「忘年会」という文字が散見する。おそらくこの年の暮れの光景だろう。

だが1937年は、日中戦争が始まる年でもある。この後社会は急速に軍事色を強め、娯楽の乏しい暗い時代へと突入していく。
それを思うと、上の写真が、閉塞感を強める世の中にあらがう民衆の姿にも見えてくる。
しかしながら、伊勢佐木町・馬車道の昭和前期の全盛期が終焉を迎えるのも、そう先のことではなかった。



取材を終えて




火事と地震。二つの大きな災害を乗り越えて、その都度よみがえり、盛り場を一段と発展させていった伊勢佐木町・馬車道界隈。そのたくましさは驚くばかりだ。
そして、その原動力の一端を担ったのが映画であったという事実――それは、絶えず新しいものを吸収してやまないミナト・ヨコハマを象徴しているかのようにも思える。

このあと戦争というもうひとつの災いに襲われ、三度(みたび)それを乗り越えていく街を見ていくことになるのだが、しかし物語は、そこで終わるわけではない・・・。

次回の「戦後編」も、どうぞお楽しみに。


―終わり―


取材協力

神奈川県立歴史博物館
住所/横浜市中区南仲通5-60
電話/045-201-0926
開館時間/9:30~17:00(月曜休館)
http://ch.kanagawa-museum.jp/

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

横浜市中図書館
住所/横浜市中区本牧原16-1
電話/045-621-6621
開館時間/火~金 9:30~19:00、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/naka/

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

※各博物館・図書館は感染症対策のため開館時間や休館日、利用方法などを変更している可能性がございます。詳しくは公式HPをご確認ください。


参考資料

『映画生誕110年 シネマ・シティ ―横浜と映画―』横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編集、横浜都市発展記念館発行(2005年1月刊)
『ときめきのイセザキ140年』横浜開港資料館編集・発行(2010年10月刊)
『中区わが町 中区地区沿革外史』“中区わが町”刊行委員会・中区役所発行(1986年1月刊)
『伊勢ぶら百年』伊勢佐木町一・二丁目商和会編集、伊勢ぶら百年編集委員会発行(1971年8月刊)

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  • 忘れちゃったけど、今のハリウッドというパチンコ屋のところにあった映画館でジャッキー・チェン観た。今のドンキホーテのうらの映画館でスピルバーグ観た。馬車道のとこでタイタニック観た。全部いまはもうない。

  • 子供の頃、お正月は、伊勢佐木町で映画を観て、不二家レストランが恒例でした。高校生の時もデートは関内ピカデリー、オデオン座、東宝会館、横浜松竹、横浜東映のロードショー館が沢山ありましたね!今のシネコンにない映画館の良さがありました。懐かしい。

  • 私が子どもの頃は馬車道にも伊勢佐木町にも映画館が残っていました。スターウォーズも伊勢佐木町で見ましたし。バブル辺りからかなぁ、映画館がマンション、ホテル等に建て代わって行ったのは。今残っているのは小劇場だけになってしまいました。

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