山下公園ができる前の海岸線の様子は!?
ココがキニナル!
山下公園が出来る前はどんな、海岸線だったでしょうか、砂浜、それとも、岩礁だったのでしょうか?とても気になります(おにぎりさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
山下公園が出来る前は、石積の岸壁の海岸線だった。横浜開港後に埋め立てで造られ「バンド」と呼ばれる散歩道として親しまれていた。
ライター:橘 アリー
海岸が出来たのは横浜開港後のこと
以前、はまれぽの記事にもなっているように、山下公園は1923(大正12)年の関東大震災によって出た、がれきで埋め立てられて造られた公園である。
山下公園
関東大震災が起きる以前には、山下公園の場所は海で、その前には横に長い海岸線が延びていた。
山下公園前の道路。以前はこの道路が海岸線だった
では、その海岸線はどのような様子だったのだろうか。
まずは、山下公園が出来る以前の、海岸線が造られる経緯までさかのぼる。
資料によると、江戸時代の横浜(横浜村)は、釣鐘の形をした大きな入海(いりうみ)を挟んだ横に長い洲閑島(しゅうかんじま)と呼ばれた砂州(さす:流水によって形成された砂の堆積地形)だった。現在の中区の殆どの地域は埋め立てで造られた街である。
埋め立て以前の入海
現在の様子を模型図で確認すると・・・
赤く囲ったところが山下公園(『南吉田町内会資料』より)
洲閑島があったのは現在の弁天通りの辺りで、黄色で囲ったところ。
中村川と大岡川を挟んだ内側は、埋め立てで造られた街だった。
山下公園が出来る前の海岸線の場所(現在の山下公園前の通り)はもともとは海だったが、その場所が埋め立てられたのは1859(安政5)年の横浜開港後のこと。
開港少し前1854(嘉永77)年の様子の絵。右方向が現在の山下公園(『中区史』より)
開港により横浜に多くの外国人がやって来るようになった。外国人の居住や仕事のための居留地が必要となり、開港場と決められた横浜の海の埋め立てが行われた。
そして、現在の横浜公園を背にして、日本大通りの北西側が日本人町、南東側が居留地と決められた。
象の鼻パーク前の海岸通り。横断歩道の右側が居留地だった
そんな中で、1863(文久3)年に、山下公園が造られる以前の海岸線、海岸通りが居留地の中に造られた。その当時の海岸通りについて調べてみる。