横浜に根ざした舞台を中心に活動する、五大路子さんを徹底解剖!
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横浜に根ざした舞台を中心に活動する、五大路子さんを徹底解剖!
ライター:大和田 敏子
NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」で主役デビューから、数々のテレビドラマや舞台で活躍を続け、今年で女優生活40周年を迎える五大路子さん。
1999(平成11)年、「横浜夢座」を旗揚げ以降は、横浜の歴史や場所・人にスポットをあてた舞台を作り上げてきた。なかでも、横浜の老娼婦メリーさんをモデルにした「横浜ローザ」は毎年公演を重ね、今年で初演から21年目。2015(平成27)年4月にはアメリカ ニューヨークで公演も行っている。
強い横浜愛と発信力のある五大路子さんの魅力に迫る。
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五大さんを迎えたのは、「RouRou Café(ロウロウカフェ)」。落ち着いた雰囲気ながら、どこか個性的な空間は、横浜中華街の中にあって異彩を放つ。
フレンドリーな笑顔で取材陣を和ませてくれたかと思うと、すぐにアクセル全開の五大さん。そのエネルギーをひしひしと感じながら、インタビューを始める。
自然とたわむれた子ども時代
―幼いころの思い出を聞かせてください。
出身は港北区、新横浜駅周辺です。当時あの辺りは、自然が豊かで、森の香り、川のせせらぎ、レンゲソウ、オタマジャクシ、ザリガニ・・・。自然やいきものとたわむれて育ちました。
小学生くらいまでは保母さんになりたくて、近所の小さい子たちと遊んでましたね。「みっちゃん、遊ぼ!」と訪ねてくるんですよ。「遠足よ!」とお菓子を持って一緒に出かけて、歌を歌ったり、空を見て空想して「ほら、あっちから悪者がやって来るよ」なんて言って、みんなを動かしたり、幼いころから、いろいろと演出して遊んでましたね。
とにかく自然の中で遊ぶのが大好きでした
港北小学校の分校で、篠原小学校に通っていました。「横浜に分校なんてあるの?」と言われてしまいます。たしかに学校からは富士山が見えてとてものどかでしたね。
―大地を舞台に演出していたんですね。伺っていると、演劇の道に進まれたのも、すごく自然なように思いますが・・・。
でも実は、中学校では最初、書道部に入ったんです。すごく素敵な先輩がいて「書道部に入らない?」と誘われて・・・。その憧れの先輩が、今「横浜ローザ」の題字を書いてくれていて、海外でも活躍している書道家の末廣博子さんです。
―素敵な縁ですね。その後は、やはり演劇部に?
はい。あっ、そうだ演劇の道に進む前におもしろい話がありまして。小学校の時は放送部だったんです。お昼の放送で朗読すると、先生たちやクラスメイトたちから絶賛されまして・・・
気味の悪い話をリアルに読んだら「給食中なのに・・・」と言われたり
―リアルに情景が伝わる上手な朗読だったんですね。
そうだと思います。褒められてうれしかったし、楽しくなりましたね。朗読のおもしろさを感じたことが、演劇部に入るきっかけになったのかなと思います。中高6年間は、横浜駅近くの女子校、神奈川学園でした。
女性だけの中で、変に女性を意識することなく、のびのびと過ごしました
先輩には、「夕鶴」の舞台で有名な女優の山本安英(やまもと・やすえ)さんがいらして、後輩には、女優の余貴美子(よ・きみこ)さんやガラス作家の野口真里(のぐち・まり)さんがいます。野口さんも今、「横浜ローザ」をすごく応援してくれています。
続いて、現在の五大さんのライフワークともいえる、ひとり芝居「横浜ローザ」について伺った。
1996年の初演から21年。「横浜ローザ」に込めた想いは?
―モデルになった老娼婦メリーさんとの出会いについて教えていただけますか?
メリーさんと出会ったのは、1991(平成3)年5月の横浜みなと祭の日でした。凛と前を見据えた眼差しを向けられた時、「あなた私の生きてきた今までをどう思うの? 答えてちょうだい!」と、仰ったような気がしまして・・・
そう激しく訴えかけられたような気がしたんです
それから取材を始めました。ジーパン履いて、小さなノートを持って、あの白塗りの化粧をするための化粧品をこの街のどこかで買っていたはずだと、伊勢佐木町じゅうの化粧品屋さんを訪ね歩くところから始めました。
メリーさんとの出会いが五大さんを揺り動かした(写真提供:森日出夫)
―大変な取材ですね。
彼女を追いかけていく中で、横浜の戦後が私の前にどんどん現れてきました。伊勢佐木町の向こうに米軍の飛行場があって、ある時間になると米兵たちが街に出てきて、娼婦たちが街に立ったのだということ。今、私が立っているこの場所に、かつてメリーさんなど、たくさんの娼婦たちが立ったのだとわかると、足元から過去に起きていた事実の断片が私の中へ実際に入ってくるようで・・・
身体中が、ぞくぞくしてきてこわばってくるような感覚になりました
メリーさんからお話は聞けなかったんですが、メリーさんとつながりがあった人たちから、たくさんのお話を聞くなかで、彼女の人生が私の中に雪崩のように入ってきました。
―初演は1996(平成8)年、出会いから5年経っているんですね。
最初から芝居にするつもりでメリーさんを追いかけていたわけではなかったんです。でも、折りにつけ、劇作家の杉山義法(すぎやま・よしのり)先生に、メリーさんの話を聞くなかで感じたことをお話していて、それに先生が共感してくださいました。
メリーさん一人だけの話としてではなく、彼女の後ろにいる何十万という女性たちの総称としての「ローザ」を描こうと言ってくださったんです。
「横浜ローザ」には、その時代を生きた女たちと日本の戦後史が重ねられた
―今年の公演を観させていただきましたが、「横浜ローザ」は、「昔、こんなことがあったよ」という話ではなくて、今に問いかけてくる、迫ってくるようなパワーのある舞台でした。
彼女がどんな思いで生きてきたのか、なぜあの白塗りだったのか、なぜ・・・と、まだまだ分からない。だから、毎年毎年、彼女を追い続けているんです。
21年間、脚本は変わっていませんが、演出は毎年変わっています
今、この時にという芝居をと思って常に挑んでいく。ホントに怖いんですよ、丸裸になって、今を感じ取って作り上げていくわけですから。けれども、そんなふうに毎回、重ねてきました。
―第2次世界大戦終戦70周年の2015(平成27)年には、「横浜ローザ」をニューヨークで公演されたんですね。
戦争に負けた国、勝った国の両方で公演をしたいというのは、作家である杉山先生と私にとって長年の夢でした。バッシングを受けるんじゃないかと思いましたし、メチャクチャ不安もありました。けれども、たった2日の芝居をニューヨークタイムスが、3枚の写真を載せ、新聞の半面を使って大きく報じてくれた。
2015年4月28日 ニューヨークタイムス
ホントに涙が出ましたね。五大路子も知らない、メリーさんも知らない人たちに伝わったということに・・・。ローカルはその定点から発信すれば、世界にも通じると実感しました。あるひとりの人間の特定な場所の話としてではなく、徹底的に掘り下げて描いていけば普遍的な存在になり、伝えたい想いは世界に通じるんですよ。
ローザの発信するもの、横浜を愛する人たちの想いが伝わったんだと思います
「横浜ローザ」は、戦争の中でどちらが敵か味方とか、誰が悪いと責めるような意図を持った芝居ではありません。ローザのセリフに「戦争は勝っても負けても、女はいつでもどこでも一緒」とあるんですが、そこに象徴されるように、戦争は何をしたか、その中で女性がどう生き抜いてきたかを描いた芝居なんです。
―今年の公演には、若い方もたくさん観に来ていましたね。
若い人たちに観ていただけるのは、ホントにうれしいです。ニューヨーク公演以降、私の著書「白い顔の伝説を求めて」を読んでもらったり、「横浜ローザ」を題材にしたりしながら、大学生や高校生と語り合う機会をもっています。
横浜国大で。大学生とともに
私も戦争を知らない世代ですが、彼らはおじいちゃんだって、もう戦争を知らないような世代。そういう人たちにも、戦争を伝え、考えてもらいたい。ぜひ舞台も観てほしいです。
続いて、五大さんが座長を務める「横浜夢座」の話を。