掃部山(かもんやま)公園ってどんな公園?
ココがキニナル!
インタビュー!(はできないけれど)井伊直弼(かもんのかみ)《横浜港を見下ろす感じで建っている銅像は圧巻》、かもん山公園などの特集が見てみたいです。(ハマっこ3代目さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
公園としての歴史は、1914(大正3)年から始まった。震災・空襲による木々の焼失、戦時体制下での銅像の金属回収という逆境を乗り越え、現在に至る
ライター:ナリタノゾミ
井伊掃部頭直弼像の憂うつ(つづき)
1923(大正12)年には、関東大震災に見舞われた。
像そのものに被害はなかったが、台座の上部と下部にずれが生じ、本来見つめていた方角から視線が25度ほど東へ向けられることになる。
台座が上下でずれている
(「動いた井伊掃部頭像」資料提供:横浜市史資料室・岩永正矣氏)
震災の炎で、掃部山名物だった八重桜の木は大部分が焼失。
掃部山は救護地となり、多数の避難民のバラックが建てられた。
倒壊を免れた像の存在は、避難民たちの間で話題になったという。「倒れてなるものか」とこらえている姿は、彼らの心の支えとなったに違いない。
樹木の植え替えが行われ、掃部山が再び公園としてよみがえったのは、1927(昭和2)年。復興に際して、民間の土地、約6642平方メートルを横浜市が買収したため、規模を広げての再出発となった。
元の向きに戻された像
(「掃部山公園 昭和戦前期」資料提供:横浜市史資料室・左右田宗夫家)
ところが、それから間もなく戦時体制が強化され、1943(昭和18)年、像は金属回収という憂き目にあう。
こうして、初代・井伊掃部頭像は掃部山を去ったのであった。
二代目・井伊掃部頭像が再び鋳造され、同じ場所に帰ってきたのは、1954(昭和29)年。
開国100年祭の開催を記念してのことであった。
台座は初代建立当時からのもの。
水飲み場とともに横浜市の歴史的建造物として登録されている
愛されていたからこそ何度もよみがえった土地
震災や戦争下で、避難場所として地域住民を守ってきた掃部山は、心の拠り所として頼られてきた。
震災・空襲によって焼失した緑が戻ったのは、地域住民の献木運動によるところも大きい。
毎年8月に開催されている、「虫の音を聞く会」は、伝統芸能や茶道に通じた文化人である井伊掃部頭をしのび、1965(昭和40)年から行われているイベントである。
空襲によって焼失した公園がようやく緑を取り戻したことを祝って、掃部山の愛護会で企画したのが始まりだという。
当イベントは、尺八や琴の音を流しながら、お茶を楽しむという内容のもの。ボンボリを灯し、秋の虫を放ち、横浜の秋の情緒を堪能する。
池の周辺。石灯籠を囲って茶席が設けられていた頃もあったが、
危険防止のため現在立入禁止
当時の記録によると、一回目は愛護会主催の比較的ささやかな会だったようだ。園内に秋の虫を放とうと、愛護会メンバーが子どもたちを引き連れて、自ら方々へ虫取りに行ったという。
二回目からは観光協会が主催に加わり、徐々に規模を大きくした。虫は東京の園芸店から取り寄せられ、加えて植木市や飲食スペースも設けられた。
四回目には、金魚すくいコーナーなども設置され、ますます賑やかなイベントへと発展していった。
当イベントは、現在では西区三大祭の1つとされている。
「虫の音を聞く会」にちなんで1981(昭和56)年に設置された歌碑