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空襲体験者が語る、湘南地域を襲った空襲被害とは?

ココがキニナル!

朝ドラ「梅ちゃん先生」で空襲のことをやっていましたが、湘南エリアの空襲について取材してください。(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

今回は湘南の空襲被害として、藤沢市と特別に平塚市をピックアップ。実際に空襲を目の当たりにした方の、貴重な証言をお届けする。

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ライター:松崎 辰彦

平塚空襲の惨事



湘南地域での大きな空襲被害といえば、はまれぽの調査対象エリア外ではあるが、平塚空襲を挙げなければならない。
1945(昭和20)年7月16日深夜から17日未明にかけて、平塚および近隣の町村は133機
のB29による爆撃を受けた。これが平塚空襲である。
 


「平塚大空襲-学徒動員・15歳の死と生-」平野哲男・絵
(画像提供:平塚市博物館)


死者328人以上(「平塚の空襲と戦災を記録する会」調べ)、重軽傷者268人、罹災者3万5336人、全焼8263戸(以上、神奈川県警調べ)という被害を受けた。
 


平塚空襲被災後の市内(画像提供:平塚市博物館)
 

平塚は大きな被害を受けた(画像提供:平塚市博物館)

<クリックで拡大>  

市内各地。いずれも焼夷弾で壊滅的な打撃を受けている(画像提供:平塚市博物館)

 

平塚・沼津空襲の航路図(画像提供:平塚市博物館)
<クリックで拡大>


平塚空襲を経験し、語り部として活動しているのが「平塚の空襲と戦災を記録する会」の江藤巌(いわお)さんである。1933(昭和8)年生まれの彼は12歳のとき平塚空襲に遭い、九死に一生を得た。
 


江藤巌さん


当時、居住していたのが平塚市須賀。現在の港小学校付近である。平塚はそのころ、第二海軍火薬廠(かやくしょう)のほかに日本国際航空工業、横須賀海軍工廠(こうしょう)平塚分工場、第二海軍航空廠といった大規模な軍需工場が集中した軍事都市だった。

江藤さんの父親は旧国鉄の鶴見駅に勤務していて、横浜大空襲のさいには駅舎に落ちた焼夷弾を数発外へ投げ出して駅舎を守った経験があった。
 


当時は各地で防空訓練が重ねられていた (画像提供:平塚市博物館)


7月16日夜、寝ていた江藤さんは父親の「空襲だ!」という声で目を覚ました。足にゲートル(足を保護するためにまく布)を巻こうとしたが、「早く裏に出ろ!」と父にいわれて裏庭に出た。

外に出ても飛行機は確認できない。家族は両親・姉(16)・兄(14)・本人(平塚工業学校1年生)・妹(9)・弟(7/年齢はいずれも当時)だったが、姉と妹、弟は防空壕に入った。両親と兄、そして江藤さんは家の軒下に立った。父が「今日こそ平塚だぞ。覚悟するように」といった。