空襲体験者が語る、湘南地域を襲った空襲被害とは?
ココがキニナル!
朝ドラ「梅ちゃん先生」で空襲のことをやっていましたが、湘南エリアの空襲について取材してください。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
今回は湘南の空襲被害として、藤沢市と特別に平塚市をピックアップ。実際に空襲を目の当たりにした方の、貴重な証言をお届けする。
ライター:松崎 辰彦
防空壕が焼夷弾の直撃を受けた
そうするうちに、空から照明弾が落ちてきて、あたりを明るく照らし出した。すると遠くですさまじい火の手が上がり、空が真っ赤になった。空襲が始まったのである。集中豪雨のようなザーッという音が聞こえたとき、父は江藤さんを防空壕に押しやった。
狭い防空壕の入り口から一つ目の段を降りた瞬間、目の前に強烈な青白い閃光を浴びせられ、江藤さんは思わず目をつぶった。その直後、体が燃え上がるように熱くなった。あとは「熱いよう、熱いよう」と泣き叫ぶしかできなかった。
M50焼夷弾。平塚空襲では40万6010本投下されている
(画像提供:平塚市博物館)
M47焼夷弾の残骸。平塚空襲では4万1706本投下されている
(画像提供:平塚市博物館)
父親が防空壕から江藤さんを引きずりだして防火用水に投げ込み、体についた火を消してくれた。弟、姉、妹が防空壕から出されたが、姉が「痛い、痛い」と泣き叫んだ。「足をやられている」と父が言った。妹は火はついていなかったが、ぐったりしていた。父が「千代子! 千代子!」と大声で呼びかけたが反応がない。「千代子は駄目だ」そう言って妹の体を地面に置いた。妹は破片が心臓を直撃していた。
ここから避難することになったが姉は「私はもう駄目だからここにいる。みんな早く避難して・・・」と叫んだ。父は「みんなと一緒に行くんだ」と姉をおぶった。姉を見て、江藤さんはびっくりした。右足のスネの部分が切断され、皮一枚で足にぶら下がり、そこからボタボタと血が垂れていた。腿をきつく縛って止血し、家族で海岸を目指した。
江藤さんが後に思い出して描いた避難時の様子(画像提供:平塚市博物館)
江藤さんが逃げた経路(画像提供:平塚市博物館)
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江藤さんは自分も負傷したことにこのとき気付いた。両足に水ぶくれができて、歩くとそれがぶつかり合って猛烈に痛み、思うように進めなかった。
いまだ傷跡が残る足。「ゲートルを巻いていればこうならなかったんですが・・・」
ようやく安全な場所に到着したが、母が家からもってきたヤカンの水を姉に飲ませると、飲むたびに大量に出血した。父は「水を飲ませるな。出血多量で駄目になるぞ」といったが、姉は「私は助かっても片足がなくなる。そのくらいなら、おいしい水をいっぱい飲んで死んだほうがいい」といって泣き叫んだ。
その後江藤さんは気を失った。目を覚ましたときに、自分が寝ているのは家であることに気づいた。皮肉なことに、避難した防空壕は焼夷弾の直撃を受けたのに、家は無事だったのである。母親は「こんなことなら避難しなければよかった」と歎(なげ)いた。
江藤さんが住んでいた須賀の被害状況(画像提供:平塚市博物館)
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──この後、江藤さんの記憶は断片的となる。確かなのは間もなく医師の診療を受け、足の水ぶくれの治療をして帰宅したところ、姉と弟がすでに死亡していたことだった。そして江藤さんは昏睡状態に入った。
次に目が覚めたときに「おれは死なないぞ。必ず生きてみんなの仇をとるぞ」といったことは記憶している。
江藤さんの耳には今でも妹さんの(兄ちゃん 私を犬死にさせないで)という声が聞こえてくるという。
「私はいつも講演で、結論から言います。『戦争で一番多く犠牲になるのは女性と子どもです。その実例として私の体験を話します。どんな戦争でも必ずこうなります』と・・・」
取材を終えて
「戦争は始まってから何分で終るんですか?」──江藤さんの話を聞いた後、こう質問した小学生がいたそうである。江藤さんも当初は、実際の戦争とコンピューターゲームの戦争の区別がついていないと感じたが、「待てよ」と考えなおした。
講演中の江藤さん
宣戦布告の直後に核ミサイルのスイッチを押したならば、たしかに戦争開始から終結まで数分しかかからない。あの小学生はそこまで考えて、ああ言ったのだろうか。
すでに人類を滅亡させるだけの力を、人類自身が持ってしまっている。将来の人類がこの力を行使しないという保証が、どこにあるか。最後に頼りになるのは、体験に裏付けられた理性ではないのか。
江藤さんの話は、戦後生まれの当方にはやはり理解の及ばない部分も多かった。幼少でこれだけの体験をした、というよりさせられたことは想像を絶する。戦争の語り部の声に、私たちはますます耳を傾けなければならない。
平塚・八幡山公園にある平和慰霊塔
―終わり―
参考文献
・藤沢市史編さん委員会編「藤沢市史 第六巻 通史編」(藤沢市役所)
・「市民が語る十五年戦争 ~博物館建設準備調査報告書~ 第6集」(編集・発行/藤沢市教育委員会 博物館建設準備担当)
・平塚の空襲と戦災を記録する会編「市民が探る平塚空襲 -65年目の検証-」(平塚市博物館)
・平塚の空襲と戦災を記録する会編「市民が語る平塚空襲証言編」(平塚市博物館)
他
取材協力
・平塚市博物館
・川崎市平和館
さきちさん
2013年08月14日 20時22分
平塚が空襲で大きな被害を受けたという事は知っていましたが、予想以上の酷さでした。平塚は大好きなまちで、今私が通っている市でもあります。詳しく知る機会をありがとうございました。
きいちさん
2013年08月14日 16時19分
須賀の豆腐屋の娘だった母もまさにこの空襲を体験していました。焼け出され、すぐ裏の馬入川に逃げると川面すれすれに米軍機が飛んできて一般人にも機銃掃射をしたそうです。長楽寺にある本家の墓もこの空襲で敵機の弾を受け、半分墓石がえぐられてしまいましたが、本家の人は、後世まで残すと墓石をそのえぐられた状態にしていていました。私は直接空襲を経験していませんが、この墓石を見て戦争の恐ろしさを実感しました。
円海山さん
2013年08月14日 12時22分
面白かった、というボタンのことばはこの記事には不適切であるが 戦争被害のリアルな現実を再認識させる意味で 貴重なレポートだと思う。