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野毛の街の歴史について教えて!【後編―開港期にできたお店で一番古いのはどこ―】

ココがキニナル!

戦後まもない野毛周辺の街並みが気になる。今もあるお店の中で一番古いのは!?(とっくんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

野毛に今ある店のなかでいちばん古いのは、人力車製造業として1876(明治9)年に開業した河本輪業である

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ライター:永田 ミナミ

天保堂苅部書店



続いては大正時代までさかのぼる。1916(大正5)年に開店した古書店、「天保堂苅部書店」である。
 


野毛坂にある苅部書店。以前から雰囲気に誘われて何度か立ち寄っていた
 

ご主人の苅部正(かるべただし)さんに取材内容を伝えると「まあ、すわりなさいよ」と椅子を勧めてくださった。そして、開港のころからの野毛の歴史をふくめた、苅部書店の話をうかがうことができたのである。
 


野毛の歴史についてとても詳しい話を聞かせてくださった苅部正さん
 

貸していただいた2つの資料は面白く、往時を知るのにとても役立った
 

看板から、ひょっとしたら天保時代(1830〜44年)創業か、とも思ったが、「天保堂」はあくまで屋号で、実際の開業は1916(大正5)年とのことだった。

正さんの祖父である苅部兵蔵(へいぞう)さんが保土ケ谷から野毛に移ってきたのは1881(明治14)年。とび職と土木請負を生業とていた長谷川秀造という人物を慕ってのことだといい、兵蔵さんもとび職と土木請負の仕事をしていた。ちなみに長谷川秀造氏は、戯曲『瞼の母』や『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』などで知られる作家長谷川伸の大叔父にあたる。

一方、1916(大正5)年に天保堂を開業したのは、篠田亮一という、神田や本郷に古本売買の市場開設に関わった古書業者だった。以前、小僧として主人について横浜に来た際、和綴じとは違う、三方が金に塗られた洋書の本を見ていた篠田氏は、1913(大正2)年の大火で神田が焼失したときに「これからは横浜だ」と考えて神田から移る。そして、苅部兵蔵さんから土地を借りて1916(大正5)年に開店したのが、古書店「天保堂」だった。

当初、「天保堂」があったのは、現在KALDIという喫茶店がある場所だという。
 


当初、「天保堂」は、地図の★の場所にあった
 

1909(明治42)年、伊勢佐木町に開店していた第四有隣堂が、関東大震災後に隣接するビルを買収すると、篠田氏は2階に有隣堂古書部をつくるなど商売を拡張したが、野毛の店は1945(昭和20)年の横浜大空襲で焼失、有隣堂古書部があった場所は接収されてしまう。

しかし、戦後まもなく野毛坂にマーケットができあがると、横浜市から文化商品も並べてほしいという要請があり、正さんの兄が引き継ぐかたちで1946(昭和21)年5月5日、現在地に、1枚の戸板に本をならべた「天保堂苅部書店」を再開したという。

戦後、伊勢佐木町が接収されていた期間、有隣堂は現在のちぇるる入口付近に60坪の野毛営業所を構え仮営業することになるが、これは苅部書店が相談に乗り、協力して実現したそうだ。野毛坂の苅部書店の裏手には、有隣堂の倉庫や従業員宿舎もあったという。そして、1955(昭和30)年、接収が解除されると、有隣堂は伊勢佐木町へ戻っていった。
 


金久保果実店



さて、ここからは明治時代に開業した店を訪ねていく。まずは1898(明治31)年開業の金久保果実店である。
 


野毛本通りの中ほどにある金久保果実店
 

金久保果実店は、1898(明治31)年に開店と書かれた資料もあるというが、1892(明治25)年ごろという話もある老舗だ。苅部さんからも村田家さんからも、「先代の金久保久雄さんは戦前から戦後の野毛に大変詳しい」と紹介していただいたが、現在ご高齢で体調がすぐれないということもあり、話をうかがうことができなかった。

居留地の外国人や吉田新田をつくった吉田家などを相手に商売を始めた金久保果実店は、「昔は昔、今は今」と話す現在のご主人も、自分がいいと思ったものしか仕入れない、品質にこだわった名店である。
 


三河屋


 


野毛本通りの都橋近くにある三河屋
 

緑茶の専門店である三河屋も、1898(明治31)年ごろの開業であり、当時は海外への輸出もおこなっていた。

ご主人の話によると、かつての野毛は靴や時計など、物販の店が多かったというが、商店街として活気があったのは昭和40年代ごろまでで、オイルショックとバブル景気が、野毛の街を大きく変えたという。特にバブルの時代には、野毛本通り沿いにもマンションが次々に建てられたそうだ。
 


店内には茶器もならび、明治時代の野毛の写真も飾られていた
 

その写真がこれ。右手前の「茶」と書かれた日覆いがある店が三河屋である
(提供:横浜市中央図書館)<
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いろいろなお店で三河屋の話が出てくるときは「お茶屋の醍醐さん」という呼ばれかたをしており、現在の看板には「醍醐」の文字はないが、上の明治時代の写真絵葉書に写る日覆いには「茶」という文字の右横に「醍醐商店」と書かれているのがわかる。
 


上の写真とほぼ同じ眺めの2014年初夏。右手前の並木の奥が三河屋である