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解体が報じられた、横浜最古の倉庫「旧日東倉庫」の歴史を探る!【前編】

ココがキニナル!

解体が取りざたされている横浜最古の倉庫「旧日東倉庫」の今後はどうなる?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

114年間同じ場所にたたずむ倉庫は、耐火耐震建築として全鉄筋コンクリート建築物を実現するための最後のステップであり、近代建築史の縮図といえる

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ライター:永田 ミナミ

設計者、遠藤於菟(えんどうおと)



さて、「旧日東倉庫」と「旧横浜三井物産ビル」は、ともに遠藤於菟(おと)の設計による。日本最古の全鉄筋コンクリート建築物である「旧横浜三井物産ビル」に対し、「旧日東倉庫」は鉄筋コンクリート、煉瓦、木材の混合建築である。
 


青色部分が鉄筋コンクリート、赤色部分の煉瓦造柱もRC使用の可能性あり
(提供:大野敏・横浜国立大大学院准教授)

 
建物の骨格である柱に鉄筋コンクリートを採用した倉庫のこの構造は、全鉄筋コンクリートによるビル建設に向けての、コンクリート試用の最終段階だったことがうかがわれる。

遠藤於菟は、1903(明治36)年ごろから鉄筋コンクリートによる建築の可能性を追求したベルギー人建築家オーギュスト・ペレになぞらえて「日本のペレ」とも呼ばれるが、ペレからわずか8年後に全鉄筋コンクリートによるビルを完成させている。

ではなぜ遠藤於菟は鉄筋コンクリート建築に情熱を傾けたのか。

倉庫竣工の19年前の1891(明治24)年、当時は9月入学だった東京帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)に進学したばかりの遠藤於菟は、10月28日の午前6時に発生した、直下型地震としては今でも日本観測史上最大である、岐阜県で発生した「濃尾(のうび)大地震」の学術調査隊の一員として、現地に赴いた。

建築関係の被害調査を担当するメンバーであった遠藤於菟は、現地で、近代的西洋建築である煉瓦造りの尾張紡績工場が、屋根が床まで落ちて、壁もほぼ崩れ落ちているのを見た。
 


濃尾地方(名古屋、岐阜、大垣)は震度6〜7、死者は7723人にのぼった(フリー画像)

 
煉瓦を繋ぎ合わせていたのは、石灰に砂を混ぜたものだったが、セメントというよりも接着力の脆弱な漆喰(しっくい)であり、耐震性は皆無と言ってよかった。その点、旧来からの木造日本家屋は地震には煉瓦造りよりも強度があったが、出火戸数は14万2177戸に及び、耐火性には無力であった。

そこで、地震と火災の両方に耐えうる建材として遠藤於菟が注目したのが、鉄筋コンクリートであった。在学中に支援を受けていた三井物産にコンクリートの存在を知らされ、研究を始めたのである。

当時は、日本国内でも西多摩山中でセメントの原料となる石灰岩が発見されて、1875(明治8)年から官営工場で生産が始まっており、1883(明治16)年には民営化された。「浅野セメント」である。
一方、三井物産は山口県の小野田セメントと契約し、民間への普及に向けて動き始めていた。

ちなみに「セメント」とは、水で練って型に流し込んだり塗り込んだりして凝固させる無機質の粉末で、種類がいろいろあるものの、シリカ・アルミナ・酸化鉄・石灰・石膏を原料としたものが最も多く用いられる。
「モルタル」は、セメントまたは石灰に砂を混ぜ水で練ったもので外壁塗装などに用い、「コンクリート」は、セメントに砂と砂利を混ぜ、捏(こ)ねたものでかなりの強度がある。
 


浅野中学・高校敷地内の銅像山に立つ浅野総一郎像(提供:横浜市中央図書館)

 
遠藤於菟の帝大在学中には、もうひとつ大きな地震があった。7月に帝大卒業をひかえ、また日清戦争開戦からまもない1894(明治27)年6月20日に発生した、明治東京地震である。

煉瓦でできた煙突の被害が多く「煙突地震」と呼ばれたこの地震でも、煉瓦建造物が木造家屋よりも大きな被害を受けた。高い耐火性から普及していた煉瓦建築は、やはり地震の前にはひとたまりもなかったのである。

卒業後、国内ではまだ前例のなかった個人建築事務所を中華街に開設した遠藤於菟は、設計や現場監督といった仕事と並行して、事務所で鉄筋コンクリートの実用化に向けて研究と実験を重ねていた。

当時、鉄筋コンクリートは1894(明治27)年竣工、建築家の辰野金吾(たつのきんご)が日本銀行の床に使用したあと、10年ほど間をおいて1905(明治38)年に仙台市で、全鉄筋コンクリートの「広瀬橋」がつくられるなど実用例はあったが、木造に替わる技術は煉瓦造りという考え方が定着しており、新しい工法の信頼性についても懐疑的な見方が強かった。
 


重要文化財の日本銀行本店。同じく重要文化財の東京駅舎も辰野の設計による

 
また、ヨーロッパと異なり、良質なコンクリートをつくるための設備がまだ充分でなかった日本において、鉄筋コンクリートは決して安価な建材とは言えず、「型枠のなかに鉄筋を配置し、そこにコンクリートを流し込み、突き固めたあと固まるのを待って型枠を上方に移動させ、またコンクリートを流し込む」という作業は煉瓦造りと同程度の手間がかかる上、そのための技術も必要だった。

そのような状況から、遠藤於菟と同時代の建築家である三橋四郎は、耐火構造として鉄筋コンクリートの普及を訴えながらも実現には至らず、苦肉の策の過渡的工法として、木材や鉄骨などの芯材に鉄網を巻きつけ、そこに鏝(こて)でコンクリートを塗りつける、「鉄網コンクリート」を考案している。

(耐火構造は)理想としては申分がないが、日本の経済程度よりして未だ之を許さないのは頗(すこぶ※編集部注)る残念である。米国辺では此の頃盛に鉄骨テラカタや鉄筋コンクリートが行はれて居るが、こんな事は到底日本は如何に痩せ我慢を出しても出来ない。考へ来ると何だか涙が出さうになつた『建築家が見たる東京市区改正』三橋四郎(明治40年12月)

理想と現実の差、西洋と日本の差を前にした三橋の悔しさがにじむ文だが、「鉄網コンクリート」は、結果的に「鉄筋コンクリート」への上昇的移行よりも「木造モルタル」というかたちで一般住宅などに下降的に普及していくことになる。
 


昔ながらの木造モルタル家屋も建て替えや開発で少なくなってきている