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ついに踏破、開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 磯子区~金沢区

ココがキニナル!

横浜港が埋め立てられる以前の、旧海岸線を探す旅をお願いします。金沢、磯子、中、西、神奈川、鶴見の各区の何か海岸線の名残の様な物を見つけて欲しいです。(タッカーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

磯子区~金沢区の旧海岸線を踏破。埋め立てによって海を諦めた人々の想いに触れ、また自然が多く残るエリアを、身を持って感じることができた

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ライター:細野 誠治

磯子区・後編 陸地(くがち)の屏風と、梅の香り



根岸湾を左に見て国道を行く。右に目を転じれば、急峻な崖が迫るように続いている。中区の本牧鼻(本牧元町)辺りから続く垂直に隆起した断崖。すぐ下は海。歩いているだけで、かつての海岸線を容易に想像することができる。
 


磯子駅周辺の様子。切り立った崖に長い海岸線(クリックして拡大)
 

本牧鼻から続く、今も残る崖
 

磯子区の総合庁舎も駅も、海の上

 
16号線を南下すると、やがて環状2号線にぶつかる。西へ進路を取れば京急本線の「屏風浦」駅。この駅名は、周辺の風景から名付けられた。
 


この辺りの海岸線は、まるで屏風を立てたように切り立っていたためだ

 
中区~磯子区と続くこの屏風は、はるばる金沢区まで続く。当時、切り立った崖で交通の便が悪く、山越えをするか船による移動が主だった。

埋め立ては工業地帯のためばかりでなく、交通網の整備という観点からも重要なものだったのだ。

屏風ヶ浦の信号から1kmほど、JR新杉田へ。
 


JR新杉田駅もラビスタも海の上にあたる

 
ここで海(海岸線)だった名残を見つける。
 


16号線沿い、駅近くのコンビニ前に掲示板
 

この辺りはかつて杉田村と呼ばれ、煎海鼠(いりこ)が名産品だった

 
煎海鼠とはナマコを煮た後、天日で干して煎り上げたもの。杉田村(屏風浦)で獲れたナマコを加工したものが江戸時代末期、人気だった。

海の名残を知らせるものは、まだある。駅からすぐにある杉田小学校内には貝塚がある。
 


駅から300メートルほどにある杉田小学校

 
学校ということもあり普段は非公開なのだが今回、特別に見せていただくことができた。
 


校舎1階に貝塚が保存されている
 

壁にはめ込まれた地層。大量の貝が堆積しているのが分かる
 

貴重な資料が展示されている

 
この貝層は縄文時代中期後半から晩期にかけてのもの。杉田小学校は貝塚の上に建っている。そして杉田小学校の隣には臨済宗大本山建長寺派の東漸寺(とうぜんじ)という寺がある。
 


1301(正安3)年に開基された古刹
 

システム上でも確認ができる(クリックして拡大)
 

付近はアスファルト敷きだが、境内の土には多数の貝が散見できる

 
もうひとつ、屏風浦(杉田)周辺を語る上で重要なものがある。それは「杉田の梅」。
 


杉田村を伝える絵。梅園と書かれている

 
杉田と梅は、切っても切れない関係にある。なぜか。今から約400年以上前の天正年間(1573年~)、当時この周辺の領主だった間宮信繁(まみや・のぶしげ)が戦陣用として貴重な実梅を取るため、村民に梅を植えることを推奨したという。

時代を経た江戸期、元禄(1688年~)のころになると梅の木は3万6000本を数え、屏風浦一体に広がっていたそうだ。

杉田の歴史を収めた資料によると「2月の開花ごろになると、東京湾に入ってくる船が観音崎沖までくると梅の香がした」と書かれている。

梅の実は梅干しにされ、杉田浦から御朱印船に載せられたという。
貿易品として、そして根岸湾を訪れた水師たちが嗅いだ梅。その最初の木が現存している。杉田の信号機の手前を右折、妙法寺という寺。
 


創建は1352(文和元)年という日蓮宗の「妙法寺」
 

由来書き(左)と最初の梅の木
 

境内には梅の句が刻まれた石碑が複数建つ
 

寄り道から、元の道(旧海岸線)へ。国道16号線を外れて一般道へと進入する(クリックして拡大)

 
この辺りから旧海岸線は、グッと内陸へ。埋め立て面積が大きくなった。
 


16号線を外れ、左側の一般道へ

 
道なりに200メートル。杉田川が横たわる。ここが磯子区と金沢区の境界。
 


ここから金沢区へ。この日の調査を終える




金沢区・前編 自然と、鎌倉幕府の鬼門護り



調査2日目。いよいよラストスパートの金沢区へ。システムで道程を確認しておこう。
 


旧海岸線は国道16号線と高速道、シーサイドラインの中間となっている
(クリックして拡大)

 
一般道を行く。住所は富岡東1丁目と昭和町(埋め立て側)との境に当たる。
 


昭和町側には海洋研究開発機構・横浜研究所が建つ
 

しばらく行くと日本飛行機の敷地に・・・

 
近くには富岡総合公園があり、工場と自然が入り組み非常に複雑。鶴見区以来、久しぶりに道を引き返す。旧海岸線を歩きたいが、さまざまな障壁に遮られてしまう。
仕方なく一旦、国道16号線に戻り、青砥坂から富岡総合公園の縁、北側外周へ。
 


今までの道筋でもっとも複雑な区画となっている(クリックして拡大)
 

公園から道を挟んだ展望台に到着。昔の景色は海だけだっただろう
 

開発の歴史を知らせる掲示物があった

 
展望台を降ると北台川にぶつかる。
 


見る影もないが、ここが海との合流点だったはず
 

やっと公園に到着。北側外周はやはり崖だ

 
ここからは崖、緑の塊を右に見て進む。神奈川県警察第一機動隊の宿舎も、富岡団地も海の上。道なりに行くと途中で東富岡連絡道と交差する。

ここで少し寄り道。進行方向から右へ一本逸れると旧海岸通りという道に。ここにポイントがある。
 


慶柵寺(けいさんじ)という寺の脇に石碑が建つ
 

この場所に
孫文(1866~1925)が小船でたどり着いたそうだ

 
1913(大正2)年、船で中国を脱出した孫文は台湾を経由し、横浜沖へ到着。そこから小船で当地に降り立った。
約100年前の出来事。亡命し命がけで新天地へ。第一の渡渉が金沢。
 


写真を置いておこう。これが昔の富岡海岸

 
海岸線に戻ろう。ぐるりと弧を描く道筋の先に金沢区の名スポット、源頼朝が建立した富岡八幡宮が鎮座している。
 


システムを見ると、海へ突き出した岬に建てられたのだと確認できる(クリックして拡大)
 

創建は1191(建久2)年。鎌倉幕府の鬼門の護りとして建てられた
 

約100年前の富岡八幡宮。海岸線の位置から推察するに南側から撮られた1枚