教科書に載っていない歴史がここに! 革命家「孫文」の知られざる横浜中華街での結婚生活とは?
ココがキニナル!
中華民国建国の父、孫文が1898年、横浜中華街で日本人妻大月薫さんと結婚していた。どういう経緯で知り合い、結婚に至った?結婚後孫文は中華民国樹立までに横浜でどのような活動をした?(ひろりん。さん)
はまれぽ調査結果!
大月薫さんは父親の知人を介して日本に亡命中の孫文と出会い、孫文が一目ぼれして1902年(1903年ごろ)に結婚。孫文は横浜で革命の準備をした
ライター:ムラクシサヨコ
孫文の妻といえば、中華人民共和国国家副主席、国家名誉主席にもなった宋慶齢が知られているが、実はその前に先妻、内縁の妻がいた。その一人が日本人、大月薫(おおつき・かおる、1888年―1970年)である。短い結婚期間だったが、子どもももうけている。大月薫の激動の人生を探ってみる。
孫文について
まずは孫文について。中国でも台湾でも「国父」として尊敬されている偉大な人物だ。
孫文(フリー画像より)
孫文は1866(慶応2)年広東省生まれ。1878(明治11)年に兄を頼ってハワイへ。現地のハイスクールを卒業、その後香港に渡り、医学を学んだ。1892(明治25)年に西医書院(現・香港大学医学部)で博士号を取得している。1894(明治27)年、ハワイで反清朝の革命秘密結社を組織。広州で武装隆起するが失敗し、日本に亡命する。
青年時代を海外で過ごし、国際感覚にすぐれていた孫文。理想の国づくりに燃える姿に、多くの日本人が支援した。
その後、世界各地を訪問。1911(明治44)年、辛亥(しんがい)革命が起こり、中華民国の大総統となるが、その後、袁世凱(えんせいがい)がその座に就き、日本へ亡命。
中華民国誕生のきっかけとなった辛亥革命(フリー画像より)
1915(大正4)年、宋慶齢と結婚。1917(大正6)年広東政府を樹立。1919(大正8)年中国国民党を結成。1925(大正14)年、60歳で死去した。
孫文の人生を紐解いていくと、ハワイ、香港、欧米と世界中を飛び回っていたことに驚く。日本には10回(諸説あり)ほど来日しており、華僑や支援者の多く住む横浜に長く滞在していた。
孫文の結婚
孫文の妻といえば、宋慶齢(『宋家の三姉妹<中国近代史に影響を与えた三姉妹>』の一人)が知られているが、孫文は実は何度も結婚している。
宋慶齢。妹は蒋介石夫人の宋美齢(そう・びれい/フリー画像より)
1回目の結婚は18歳の時。同郷出身の盧慕貞(ろぼてい)と結婚した。子どもは3人もうけている。その後、孫文は世界を駆け回り、別居が続く。
資料によって記述が異なるが、24歳の時、亡命先の香港で出会った陳粹芬(チェン・ツイフェン)という女性がパートナーとなっている。共同生活者や愛人と記載されているものもあり、正式な結婚ではなかったようだが、若き孫文を支えた人物として知られている。
その後、孫文は38歳の時に日本で大月薫(敬称略)と結婚。最後の結婚となったのが宋慶齢だ。「英雄色を好む」というが、公式・非公式に4人と結婚。このほかに、大月薫と出会う前に、浅田ハルという愛人の存在もあった。どの女性も孫文を献身的に支えていたようだ。
12歳のころの大月薫(フリー画像より)
大月薫は孫文と結婚し子ももうけているが、長い間、孫文の公的な史料には載っておらず、「知る人ぞ知る」といった存在だったようだ。
大月薫の存在が公になるまで
大月薫が孫文の妻であったと公式に明らかにしたのは孫文の研究者で日本女子大学名誉教授の久保田文次(くぼた・ぶんじ)さんだ。
どのような経緯で孫文と大月薫が結婚していたことが分かったのか、またなぜ孫文と結婚し、長い間歴史にその名が載ることがなかったのか・・・。久保田さんのご自宅に近い八王子市内のホテルで話を伺った。
久保田文次日本女子大学名誉教授
きっかけはある女性の「私の母親は大月薫で、父親は孫文であるがその確証を得たいので協力してほしい」という依頼だった、と久保田さんは言う。
1981(昭和56)年のある日、孫文研究者の久保田さんのもとに、先輩である横浜国立大学教授を通して、ある調査の依頼が舞い込んだ。依頼主の名は故・宮川冨美子(みやがわ・ふみこ)さん。「自分の母親は大月薫という女性で、父親は孫文ではないかと思うがそれが本当かどうか、確かめてほしい」という。
1901(明治34)年。日本に滞在中の孫文(フリー画像より)
久保田さんはその時のことをこう振り返る。
「突然孫文が父親ではないかと言われれば、驚きますが、宮川さんが持ってきた資料をみて、これは本当ではないかと思ったのです。ちょうど外交史料館で孫文に関する膨大な史料をコピーしたばかりだったので、すぐに分かるのではないかと思ったこともあり、お引き受けしました。何より、宮川冨美子さんの真面目なお人柄をみて信用できると思いました」
もう一つ、久保田さんが「これは本当だ」と思った理由がある。
「冨美子さんは孫文にそっくりだったのです」
後に、中国の関係者に冨美子さんの写真を見せて説明しようとすると「写真を見ただけで孫文の子だとすぐ分かった」と言われたことが何度もあるという。
若き日の孫文。目元が宮川冨美子さんとそっくりだったという(フリー画像より)
宮川冨美子さんは、生後すぐ里子に出される。成長するにつれ、自分はここの家の子ではないのではないかとうすうす感じていたという。本当の母親がいるはずだ、母親はなぜ自分を捨てたのか、と思っていて、調べるうちに、大月薫という女性が自分の母親だと突き止めた。だが、確証のないまま日々が過ぎていた。
調べる中で、自分は「大月薫と孫文の子だと分かった」という。
母親探しをするつもりが、歴史上の偉人が自分の父親と知ったときは、さぞ驚いたのではないだろうか。
久保田さんによると「なんともびっくりする話ですが、この話が本当だと思ったのは、宮川さんから「母親である大月薫さんが『孫文は(1)1899(明治32)年に(2)山下町121番地に住み(3)温炳臣(おんぺいしん)と同じ所だったと証言していた』と聞いたからです。今でこそ、この3点は史実として確定できますが、大月さんは世界で初めてこれらの史実を明らかにしたのです」とのことだった。