ついに踏破、開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 磯子区~金沢区
ココがキニナル!
横浜港が埋め立てられる以前の、旧海岸線を探す旅をお願いします。金沢、磯子、中、西、神奈川、鶴見の各区の何か海岸線の名残の様な物を見つけて欲しいです。(タッカーさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
磯子区~金沢区の旧海岸線を踏破。埋め立てによって海を諦めた人々の想いに触れ、また自然が多く残るエリアを、身を持って感じることができた
ライター:細野 誠治
金沢区・後編 戦争の跡と、終点の野島
富岡八幡宮へのお参りも済ませて踏破再開。最終章へ。八幡宮の岬を回る。進路は一旦、西へ。現在の国道16号線に。しかし同道することなく今度は進路を南、緩やかなカーブ。
先ほど同様、区画が複雑になってゆく。しかも途中には小柴貯油施設跡地がある。日本への返還はなされたものの、今なお立ち入りが制限されている。
地図とGPSを頼りに東富岡公園へ(隣接する金沢総合高校は海の上)
右側斜面の下が約130年前の海岸線になる
引き返して再び南下。横浜横須賀道路を越える。
途中で山越えをして横浜検疫所の道に出る
野口記念館から先は小柴貯油施設跡地の山並の麓が境界
野口英世博士のレリーフは旧海岸線に(海を見ている!)。そして記念館正面にある横浜高校のグラウンドは海上。少し、面白い。
道なりに進むと長浜水路。この水路の右側が海岸線。やはり崖
ここで雨が降り出してきた。調査を一旦切り上げ翌日に持ち越すことに。
翌日は晴天。崖を右に見て順調に南下
システムを確認。海岸線にギザギザが。恐らくは岩礁だろう(クリックして拡大)
この場所はシーサイドライン「福浦」駅近くの金沢緑地にあたる
緑地と崖の間を行くと柴漁港跡地の信号交差点に。
開発のために、ここにも海を諦めた人々の想いがあった
交差点を右へ。金沢海岸通りから数えて3本、内陸側の道を進む。
通りの名は小柴通り。少し勾配を感じる。
道の先は金沢文庫に繋がる
文庫小学校入口の信号を左折
ゴールは野島公園東端。ここから先は一本道だ(クリックして拡大)
システムを見るとキレイな海岸線。そして平潟(ひらかた)湾は砂地に細い水路が流れる場所。何より野島公園は陸続きだったのだと知る。
ここでも少し、脱線しよう。平潟湾の開発は江戸時代後半から明治期に始まる。まさにシステムの測量が行われていた時期と重なる。
開発の手が入るころの様子(幕末期)
年代不明のころと、大正時代の平潟湾
モノクロの写真でも充分に魅力の伝わる景勝地、金沢八景。物見遊山で大変ににぎわっていたという。
外からやってくるものたちを受け入れる場所。今の横浜でいうと、みなとみらい21地区のようなものか?
1900(明治33)年にトンネルが開通するまでは山越えか船でしか着けなかった
浮世絵の題材にも用いられる金沢八景
そんな景勝地、ガラリと風景が変わるのは昭和30年代の高度経済成長期から。
旧海岸線を巡ってきた身としては、今なお魅力を残した開発に思える
そろそろスパート。話を戻そう。文庫小学校の信号を左折すると県道に入る。
文庫小学校は陸側、まつかぜ公園は海側
シーサイドライン「海の公園南口」付近で金沢海岸通りと合流
この日は汗ばむくらいの日差し。太陽であたためられた、濃密な潮の香りがする。
ようやく海が見えた!(海苔の養殖も)
対岸が野島公園だが運河で遮られる
平潟湾と東京湾を結ぶため野島運河が拓かれている(クリックして拡大)
シーサイドライン「野島公園」駅まで歩いて橋を渡る
橋を渡って左、旧海岸線ルートにたどり着く
島の端、南東の方角へ。何故か走り出したい欲求が・・・。
護岸整備がされているものの、旧海岸線とほとんど変わらぬ場所を歩く
ここでも崖。地図に等高線が引かれていても、実際に身を置いて初めてそう感じる
自然海浜(この場所は130年前と変わらないはず)を越えて石積みへ
いよいよ旅が終わる。この場所が旅の終点。対岸は横須賀市夏島町になる
鶴見区寛政町から金沢区野島町へ。旧海岸線踏破距離は約47km(実際に歩いたのは寄り道や迂回などでその1.3倍くらい?)。
写真左側の海岸線部分をすべて歩きました!(クリックして拡大)
取材を終えて
「横浜は、いつも側に海がある」
そんな誇りに似た何かを抱えているハマっ子としては、どうしてもやってみたかったキニナルでした。
やってみて分かったことは、海は当たり前にある訳では決してなく、ひと時も同じ姿ではなく、消えてしまったり、遠くもなってしまうのだということです。
だからこそ自然は(海)、財産だとも言えるのでは? そんなことを考えています。当たり前ですが今、噛み締めています。
失って分かるものと、失って得るものも確かにありました
連載中、さまざまな意見や指摘もいただきました(励ましも)。
地図の重ね合わせをして分かることはありますが、システムには誤差もあり、あくまで目安程度です。
このキニナルに明確な答えは出せません。少しでも知る、近づくため実地に身を置いて、初めて感じることがスタートだと思い、このようなかたちを採りました。
答えを提供することはできませんでしたが、胸の踊るような好奇心をお届けできていれば幸いです。
それでは、ヨコハマ海岸探偵局はこの辺で。細野誠治でした。
― 終わり―
※今回の取材において、国立研究開発法人農業環境技術研究所の
「歴史的農業環境閲覧システム」を使用させていただきました。http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html
参考文献
『日本の古地図7 港町』(発行:株式会社講談社)
『写真集 磯子・金沢のいまむかし』(発行所:株式会社郷土出版社)
『磯子の史話』(磯子区制五〇周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会)
『中世の港湾都市 六浦』(編集/発行:神奈川県立金沢文庫)
『図説 かなざわの歴史』(金沢区制五十周年記念事業実行委員会)
『金沢八景いま昔~初公開 楠山永雄コレクション~』(編集/発行:神奈川県立金沢文庫)
くま180さん
2016年04月25日 23時08分
井上ひさしの著書「4000万歩の男」終盤に登場する三浦半島ですが、物語に関係なく伊能忠敬が当時杉田から金沢八景に向けて歩いた道がなんとなく見えたような気がしました。今度歩いてみようと思います。
寿さん
2015年10月08日 17時34分
力作、ありがとうございます。m_kさんと同様に体を張った記事を楽しみにしています。
yuuhodouさん
2015年10月08日 14時00分
大竹屋は幕府が13箇所設けた茶屋のうちの一軒と書かれていますが本当ですか。幕府が作ったなら遅くとも慶応年間でなくてはなりませんが。大竹屋の写真は掘割川と一緒に写っていて明治7年以降です。外国人遊歩新道が多く出て来るThe Far Eastにも記述はありません。おそらく「磯子の史話」を参考にして書かれたと思いますが、磯子の史話の外国人遊歩新道にはかなりおかしな点があります。明治7年以降に大竹屋が出来たと言う一方で、幕府は外国人に対するサービスが足りないから休憩所13箇所を造らせたとなっています(これだと慶応以前となる)。この矛盾は「横浜市史稿・風俗編」を底本としたからでしょう、遊歩新道に関しては間違いだらけです。字数に制限があり詳細は書けませんが、私の考える所、白滝不動から先八幡橋は期初の外国人遊歩新道ではなく、当然大竹屋は13箇所の茶屋では無く、掘割川が出来てから建ったのでしょう。