大正時代におきた謎の現象!? 茅ヶ崎の「旧相模川橋脚」とは?
ココがキニナル!
茅ヶ崎にある天然記念物「旧相模川橋脚」、元々何もない場所に突然出現したとか、これがきっかけで頼朝が亡くなったとか。そもそも橋脚と言えば人工物なのに天然記念物の旧相模川橋脚がいろいろキニナル(tAさん)
はまれぽ調査結果!
鎌倉時代の橋梁遺構「旧相模川橋脚」は関東大震災の液状化で出現した国指定史跡・天然記念物。頼朝義経の兄弟伝承があったり画期的な保存整備もされている。
ライター:岡田 幸子
頼朝をめぐる因縁が!? 橋脚の伝承がキニナル(つづき)
さらに、市内の「龍前院」には鎌倉時代後期に建立された10基の五輪塔があるが、これらは頼朝死去に際して責任をとって切腹した警護の武士 10人を弔うためのものだったという伝説も伝えられているという。調査によりその真偽は疑わしいとされているようだが、それでも興味深い。
伝承の真偽は疑わしいが、なぜかすべての銘が削りとられているといういわくつき
「鶴嶺神社(下図B)」「御霊神社(下図C)」「龍前院(下図D)」はどれも鎌倉時代前後に創建された寺社で、場所も近い。史実として確証はなくともこの地域に残る伝承をまとめると、この地で900年前に「何か」があったのではないかと想像できる気がする。
「旧相模川橋脚(図A)」周辺の比較的狭い地域に義経伝説の地が集まっている
しかし! 頼朝落馬地は隣のJR辻堂駅南口付近にもあったりする。つまり「諸説あり」
平氏討伐にて最大の功労者でありながら、兄頼朝と対立し最期は自害を迫られた「悲劇の弟・義経」の伝説は日本各地に残っており、「判官贔屓」の言葉も生んだ。
藤沢市の「白旗神社」には義経の首が祀られたとの伝承もある
境内には源義経公鎮霊碑もある
本当のことは今となっては分からない。だが、分からないからこそ、遠い昔にあった「かもしれない」兄弟の因縁話に想いを馳せてみるのも面白い。
本物は地中深くで保管!? 橋脚の現状がキニナル
さて、ここで富永さんの口から衝撃の事実が・・・「現在公開されている橋脚は、実はレプリカです。本物は地中深くで保存されています」。
え!?
確かに現地で橋脚を目にし、表面の「樹脂っぽさ」はキニナッた。保存用にコーティングか何かが施されているのだと思っていたが、まさかニセモノだったとは!
「900年も前の木製の橋脚が今に残っているのは、地中に埋まっていたためにほかなりません。空気に触れると腐ってしまう木は、水や泥に沈めておくのが一番確実な保存法なのです」
大震災による出現後、1926(大正15)年の史跡指定と前後して「旧相模川橋脚」保存のための整備が行われた。橋杭周辺に保存池を設け、水につけた状態で保存するというものだ。その後も地元の青年団を中心に防腐剤を塗布するなど、橋脚保護のための作業が続けられたという。
大正期の整備事業の様子(小島保彦氏所蔵※)
1965(昭和40)年には隣接地を所有する「武藤工業」が中心となって保存池の改修が行われた。「旧相模川橋脚」は茅ヶ崎の名所として定着し、地域に守られてきたのだ。
観光名所として絵はがきの題材にも(※)
橋杭の水面から出ている部分に傷みが見られたことから、2001(平成13)年に本格的な保存整備がスタート。2008(平成20)年までの7年間で改めて現地調査と腐朽(ふきゅう)進行を止めるための保存整備が行われた。
整備前の保存池。確かに橋杭の劣化が心配な状態だ(※)
「橋脚を現地から移動させずに、損傷をこれ以上進行させないための処置を行いました」
木製橋脚をコンクリート製の保護ピットで囲み(※)
内部は特殊な充填材で満たして湿潤状態を保つ(※)
ピットごと地中に埋め戻して大正期の池を再現(※)
「さらに、住民の憩いの場として市民に親しまれたその景観を残す配慮も。京都のメーカーに依頼して制作されたレプリカが実物の真上に設置されたのです」と富永さん。
実物から型をとったレプリカ内部は空洞で軽い(※)
組み立ててから現地に運び(※)
実物と同じように保護ピット上に設置(※)
ここに水を張れば現在の姿に(※)
つまりこういうこと(※)
最近の整備では橋脚のなりたちや出現時の様子、保存整備の方法など、キニナルに答える説明板や解説模型も設置された。
春には桜が人々の目を楽しませるという「旧相模川橋脚」(※)
ぜひ現地を訪れてその目で確認してほしい。その際には、地下深くで眠る本物の橋脚や橋脚にまつわるさまざまなエピソードにも想いを馳せていただきたいのだ。
取材を終えて
キニナル満載の「旧相模川橋脚」だが、最大のキニナルはその位置だ。地図で見ると分かる通り、この遺構は現在の相模川河口から、大きく東にずれた場所にあるのだ。これは相模川の流路が当時から大きく変わったためであると考えられている。
堆積した砂の様子からこのような流路が推測される(※)
しかし、当時の相模川がどのようなルートを流れていたかは、いまでは分からないという。いやはや、分からないことだらけだ。
「分からないから面白い」地域史の愉しみは、茅ヶ崎市全域を屋根も壁もない博物館と見立てて再発見する「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館」でも体感できる。その活動をチェックしてみてはいかが?
―終わり―
<取材協力>
茅ヶ崎市教育委員会 教育推進部社会教育課
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/hakubutsukan/
※印をつけた写真や図説はすべて『国指定史跡・天然記念物 旧相模川橋脚』茅ヶ崎市教育委員会(2013)より許可を得て転載
rumoさん
2018年03月21日 18時58分
驚きの連続で大変面白い記事でした。ただ残ったキニナルことは、史跡指定されたのが1926年なのに天然記念物となったのは2012年つい最近のことなんですね。なぜ今ごろになって?そのあたりの経緯はどうなんでしょう。やはり東日本大震災がかかわるとか(地震に対する「科学的な見直し」がなされた結果など)、あるいは2008年の保存設備の工事に伴って申請したとか?見方によっては、関東大震災の後に史跡の指定を受け、東日本大震災の後に天然記念物の指定を受けたこと、運命的にも感じます。
小鳩さん
2016年11月06日 08時47分
橋脚はヒノキではなくコウヤマキ材だと思います。
ushinさん
2016年10月18日 00時49分
「帰路に義経一族の亡霊に出会い、驚いて暴れる馬から落ちたことをきっかけに頼朝は亡くなった」との伝承←に触れていながら、「馬入川」を無視とはねぇ・・・