25周年を迎えた「シネマ・ジャック&ベティ」で振り返る横浜と映画館の歴史とは? 前編
ココがキニナル!
伊勢佐木町のミニシアター、JACK&BETTYが25周年だそうです。横浜の映画館やミニシアター、また映画の歴史なんかレポートしてください。(Kane-gonさん、マサスーンさん)
はまれぽ調査結果!
2016年12月に開館25周年を迎えたシネマ・ジャック&ベティ。記事の前編は横浜の映画史と、ジャック&ベティの歴史を紹介
ライター:紀あさ
黎明期
いったん、ここまでを年表にまとめてみた。
「映画が生まれてから、ジャック&ベティが生まれるまで」の100年間
ジャック&ベティ前身の名画座(閉館前年)
さて、1991年にリニューアルオープンしたジャック&ベティ、当時の経営をしていたのは中央興業有限会社。ジャック&ベティ、日劇のほか、関内MGA(旧関内アカデミー)、ヨコハマ・シネマ・ソサエティ、シブヤ・シネマ・ソサエティなどの映画館を経営してきた興業会社だ。
建設中のジャック&ベティ
ジャック&ベティと日劇の運営は、名物支配人だった中央興業の福寿祁久雄(ふくじゅ・きくお)さんが行っていた。現支配人の梶原さんは福寿さんを評して「監督特集・俳優特集をバンバン打ち立てていた。映画に詳しい素晴らしい人」だという。映画ファンの間ではよく知られた映画館だった。
ジャック館は邦画中心、ベティ館は洋画中心だったが、まるで毎日が映画祭のような豪華なプログラムが多かった。
福寿支配人時代のジャック&ベティ
ところが、2004(平成16)年11月、中央興業の廃業により、関内MGAとヨコハマ・シネマ・ソサエティが閉館。日劇とジャック&ベティは同社関係者によりいったん引き継がれたが、翌年2月に2館とも閉館した。
小林副支配人撮影、最終日の日劇の写真
日劇は、永瀬正敏さん主演の林海象(はやし・かいぞう)監督の映画『私立探偵 濱マイク』の舞台としても知られており、存続を願ったファンも多かった。
当時はまさか自分たちがジャック&ベティを継ぐとは夢にも思わず、日劇の最後だけを撮って、ジャック&ベティの写真は撮らなかったと小林さんは振り返る。
濱マイクの事務所だった日劇が消えた(イラスト:ナリタノゾミ)
ジャック&ベティ第2章
ひとたび幕を閉じたジャック&ベティだったが、半年後に別会社により再オープン。
ジャック館は500円でネットシネマが鑑賞できる5コインズ・シネマになり、ベティ館は林海象監督「探偵事務所5」の常設館に。翌2006(平成18)年秋に上映体制が変わり、ジャック館はムーブオーバー(続映)作品の2本立て上映、ベティ館はロードショー作品の上映館となった。
2006年8月当時のジャック&ベティ
このころ、横浜生まれだった梶原さんと、横浜勤務だった小林さんは、小林さんの会社の同僚だった浅井理央(あさい・りお)さんを含めた3人で、それぞれに会社員である傍ら、2006年から「黄金町プロジェクト」という形でまちづくりに関わっていた。
フリーペーパー『黄金町ラッシュ』の発行や、ウェブサイトからの情報発信のほか、休みの日には映画館の2階で、映画を観終わった人と、黄金町について話していたという。
『黄金町ラッシュ』にはジャック&ベティの再開を知らせる記事も
作中で濱マイクが映画館の2階にいたように、映画館に常駐してロビーで交流会をし、どうしたら映画館が街の中でいい場所になるか、黄金町がにぎやかになるかなどを話し合っていた彼らに、その年の冬、当時のジャック&ベティの運営会社から「映画館を引き継がないか」というオファーが舞い込む。
映画は好きだとはいえ、運営となると話は別。全員が全くの未経験であり、どう考えてもムチャ振りだった。だが引き受けなければ、また閉館してしまうかもしれないと思い決心。
「黄金町から映画館をなくしたくない。映画館をにぎやかにして、来館したお客さんが街の飲食店でも楽しんで帰ってくれれば」と、まだ全員20代だった3人で運営会社「株式会社エデュイットジャパン」を設立。3ヶ月ほどの引き継ぎ期間を経て、2007(平成19)年3月より梶原支配人らによる運営が始まった。
当時の様子を連載で伝えるスポーツ新聞
本当は、日劇とともにオープンさせる夢も見たが、とても無理だった。ビルが古すぎたのだ。既に築後半世紀を超えており、耐震性も不十分だった。春にジャック&ベティだけを引き継ぎ、夏に日劇ビルは解体となった。
短い引き継ぎ期間中に、上映技術だけは必死で覚えたものの、全国に配給会社が50社ほどあったうちの、その期間内に紹介を受けられたのは、ほんの数社。ジャック&ベティとしては再オープンから15年目を迎えていたが、会社は1年目。外部から信頼してもらえない。
「ちゃんと映画を借りてそのお金を払う。それが大変でした」
前払いを要求されたり、相場の倍ほどの額を提示されたこともあった。
現在はデジタルになり各館が希望時期に上映できるが、当時はフィルムで1作品あたりのフィルム数もふんだんではない。そのため、1本のフィルムを上映館に順番に回していくのが当たり前で、前の映画館が上映している期間は次の上映ができず、数ヶ月先まで上映する映画館が決まっていたりした。
「10年前の一番の思い出は」と尋ねると、「あまりにも辛すぎて、記憶が・・・」という梶原支配人。小林副支配人に「これまでで一番印象深かったことは」と聞けば
「最初のころに、ベティ館で1日6上映して、ひとりも入らなかったこと」
いかに大変な出だしだったかが、うかがわれる。
ジャック&ベティの転機
しかし上映プログラムを熟考し、さまざまな工夫を重ねる中、最初の転機が訪れる。
2010(平成22)年、故・若松孝二(わかまつ・こうじ)監督の『キャタピラー』が連日大行列となるほどの大ヒット。
劇場前に長い行列ができた『キャタピラー』
若松監督の舞台挨拶があった
そして現在のジャック&ベティの特徴のひとつに、この舞台挨拶がある。舞台挨拶とトークショーで年100回ほど開催。土日は1日2回行う日もあるそうだ。
ここで、『キャタピラー』にも出演している俳優で、映画宣伝配給会社「太秦(うずまさ)」の代表でもある小林三四郎(こばやし・さんしろう)さんからコメントをいただいた。
「映画には、ジャック&ベティの舞台挨拶は欠かせません」
ジャック&ベティの舞台挨拶の特徴としては、熱心なファンが多くて、いつも来ているお客さんの顔を覚えてしまうのだという。小林さんは「若松監督とは、よくジャック&ベティの話をしたものでした」と監督との思い出も振り返ってくれた。
取材を終えて
後編につづくが、ヒット作はある日偶然生まれたわけではない。そこに至るまでには舞台挨拶をはじめとする梶原・小林両氏の多くの工夫があった。
後編では、そのほかのさまざまな特徴や、集う人たちの声などを交えながら25周年を迎えたジャック&ベティの今をお届けする。
―後編に続く―
マサスーンさん
2017年01月12日 16時07分
日本の映画館の歴史まで掘り下げていただいて予想以上の深い内容の記事、ありがとうございます。先日も『この世界の片隅に』と『ミス・シェパードをお手本に』が満席になっていて、大変な大盛況でびっくりしました。サービス料金が100円高くなったのは少し残念ですが、椅子が新しくなって前の人の頭がスクリーンに被り難くなり、観やすくなった気がします。館長さんが思ったより年齢が若くてびっくり。前から黄金町界隈を発展させようと尽力されてた方なんですね。これからも良い作品の上映を期待してます。