山下町に残る「半端な塀」の不思議。旧居留地の「シルク通り」には何がある?
ココがキニナル!
中区山下町91番地に半端に残された塀が。「イタリア系蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地」と書かれており、通りの名前はシルク通り。昔はシルクロードだった?(Dixhuitさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
デローロ商会は、山下町の旧外国人居留地で最も古く、長く存在していた外国商社。その塀は当時の建築の面影を残す唯一の遺構だった
ライター:はまれぽ編集部
デローロ商会とは?
横浜市教育委員会が2002(平成14)年に設置したこちらのプレートによれば、デローロ商会は1870(明治3)年から1965(昭和40)年までこの場所で存続していた蚕種(さんしゅ。生糸を作るカイコガの卵)・生糸の輸出業者で、横浜で最も古くから存在し、最も長く存続した商会だったという。この塀は、旧居留地の建物姿を残す唯一の遺構として横浜市の「地域有形文化財」に指定・保存されているようだ。
確かに年月を感じさせる風格を備えている
このプレートだけでは分からないことも多い。さらに詳しく調べてみた。
2001(平成13)年の横浜開港資料館館報などによれば、デローロ商会の創業者はミラノ系イタリア人の「イシドーロ・デローロ」で、1868(明治元)年に来日し、横浜で事業を始めたという。
主な輸出品は、上記の通り蚕種や生糸だったが、屑糸の輸出も多かったことから同じく旧居留地の輸出業者である「バヴィエル商会」「エマール商会」と合わせて「屑物三館」とも呼ばれた。そうした経緯が、ここ「シルク通り」の由来になったようだ。
通りの名称にも歴史が刻まれている
旧居留地にはこうした外国商館などが多く立地していたが、一帯は1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な被害を受ける。旧居留地の建物の多くは瓦礫となり、山下公園に埋め立てられるなど往時の面影を残していないが、デローロ商会は震災後も同じ場所で復活。1965年まで存続することになる。
シルクの材料である生糸は重要な輸出品だった(フリー画像より)
そんなわけで震災後まで存続していたデローロ商会だが、その遺構である91番地の塀は、震災以前のものである可能性が高いようだ。
その証拠の一つが、下部の腰壁部分が石造りで上部がレンガでできている構造。これは旧居留地時代の構築物の特徴だといい、発見時には塀の一部に火災の痕跡などもあったことから、震災による災禍を生き延びた塀とみられているのだ。
特徴的な塀の構造
この塀が「発見」されたのは、2001年5月。マンション建設予定地だったこの場所にあった塀が、関東大震災以前のものらしいということが分かった。
調査を進めるとマンションの建設現場からも当時の遺物が発見され、横浜の近代建築の姿を残すものとして塀の一部が保存されることになった。発見された塀は北側・南側の一部境界線や西側境界線(約33メートル)と長かった。西側の塀は地下部分までレンガで作られた上でモルタルで覆われるなど、今も残されている北側とは異なる作りだったようだ。
残された塀(北側)の基礎部分は石が積まれた構造だ
使われていたレンガは、東京都葛飾区の小菅地域にあった監獄、小菅集治監(こすげしゅうじかん)製。1889(明治22)年ごろに作られた旧最高裁判所に使われたレンガと同じものや、1901(明治34)年から建設が始まった千葉刑務所のレンガと同じものがあったという。
また、建設予定地から出土した商会の遺物と思われる資料は、横浜開港資料館に収蔵されているようだ。
小さな博物館シルク通り
旧外国人居留地という立地もあり、シルク通りにはほかにもさまざまな遺物や「発祥の地」が残されている。
シルク通りの入り口に位置するのは洋菓子の「かをり」
山下町の「かをり」がある居留地70番が「ホテル発祥の地」であることは知られている。ここに日本初のホテルとされる「ヨコハマ・ホテル」があったことに由来しているそうだ。
かをり会が設置した銘板
また、そんな「ヨコハマ・ホテル」の歴史から、ここを「西洋料理・洋菓子発祥の地」ともしている。
発祥の地を示す張り紙が掲示されていた
シルク通りに入って、すぐの場所にあるマンションの敷地に残されているのが「ストラチャン商会」の倉庫跡。関東大震災によって本町通りに面した本社とともに焼失したが、その基礎が地下に残されていたという。
基礎の残された部分は公開空地として保存
さらに、シルク通りを元町・中華街方向に進むと、今度はマンションの一角に大砲が鎮座している。
年季の入った大筒が展示されている
説明書きによれば、この場所から出土した横浜開港時の遺物である大砲3門のうちの一つ。ペリーが日本に開国を迫った際、使節として交渉に臨んだ松代藩佐久間象山が用意した装備の一部だという。
その後、日本が開国の道を進む過程で地中に埋められていたものを、倉庫会社の工事の際に発掘。ほかの2門は開港資料館、神奈川県立歴史博物館にそれぞれ収蔵されているそうだ。
取材を終えて
「なぜ、半端な長さの塀をわざわざ保存しているのだろう」。最初に抱いた感想はそんなものだったが、調べてみると、デローロ商会の塀は、当時の建物の様子を残す唯一の遺構だということが分かった。
関東大震災、そして太平洋戦争を経験してきた街にとって、形として残せる歴史は非常に貴重なもの。
周辺に点在する銘板や遺物からも、消えゆくかつての風景を残そうという地域の願いが透けて見えるようだった。街が歩んできた歴史を振り返るための手掛かりとして、これからもこの場所に残り続けてもらいたい。
ー終わりー
Dixhuitさん
2018年05月30日 08時39分
いつも壁の脇にゴミが積まれていたりして誰も気に留めていないようでしたが・・・実はとても歴史ある保存物だったんですね!他にもぽつぽつと色々な所に貴重なものが残っていたようで、ますます歴史深い横浜が好きになりました!