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東戸塚の環状2号線陸橋下にひっそりある「尼将軍縁の植松寺跡」の石碑とは?

東戸塚の環状2号線陸橋下にひっそりある「尼将軍縁の植松寺跡」の石碑とは?

ココがキニナル!

環状2号、東戸塚の陸橋下(自転車保管場所の所)に「尼将軍縁の植松寺跡」という石碑がひっそりとあります。植松寺がキニナル。(山下公園のカモメさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

植松寺については不明点が多い。環状2号線の建設に伴い、100年以上前に廃寺となった寺院の名前が石碑として残ることとなった

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ライター:中田 淳也

創建には諸説ある

 
植松寺創建の由来は、江戸時代に書かれた『蓮門精舎舊詞(れんもんしょうじゃきゅうし)』という書籍に尼将軍(=北条政子)の守本尊である観音菩薩像を本尊とする寺であると記載されている。

また、同じく江戸時代に書かれた『江戸武蔵寺院由来』という書籍に「起立 貞応年中尼将軍草創之由申伝候」とある。「貞応(じょうおう)」とは1222年~1223年の元号なのだが、この時期に北条政子の守本尊である観音菩薩像を鎌倉から移転し、植松寺を創建したという。しかし、理由については触れられていなかった。
 


観音菩薩坐像(『天龍山栄林院 光安寺』より)

 
一方、1335(建武2)年に当時の植松寺の堂主である秀照上人(しゅうしょうしょうにん)が記した『遺所書之事』では、「其頃 鎌倉軍乱處々蜂起而神社堂宇盡焼失」とあり、鎌倉の戦乱による難を逃れるために植松寺のある土地に観音菩薩像を移転したと説明されている。

ここでいう「其頃」というのがいつを指すのかがはっきりしないが、鎌倉が「神社堂宇盡焼失」するほどの戦乱ということになると、1333(元弘3/正慶2)年に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした時の戦いや、それに続く1335年のいわゆる中先代の乱が考えられる。

これに従えばこの時期に観音菩薩像を移転したことになるが、その際に新たに寺院を建立したのか、それ以前に何らかの建物があってそこに観音菩薩像を迎え入れたのかといったことは定かではない。
 


戦乱の最中に観音菩薩を移転した!?(イメージ画像、フリー画像より)

 
ただ、これは個人的な見解だが、鎌倉幕府滅亡や中先代の乱は『遺所書之事』が書かれた時期と同時期であり、その場合は「其頃」ではなく「此頃」と書くのが自然かと思われる。いずれにしても前出の『江戸武蔵寺院由来』に記す創建年代とは100年以上もずれており、その時期は明らかではない。また、尼将軍の守本尊がどういう経緯で誰によってここに移されたのかもはっきりしない。

ちなみに、貞応年中説をとった場合、その直前の1221(承久3)年に承久の乱が起こっているが、主戦場は京都でもあるため、その間に観音菩薩像を避難(移転)させていると考えるのも、現実的ではないかもしれない。

そういったこともあり、1872(明治5)年に書かれた『本末寺院明細調書』という書籍では創建年号不詳となっている。これらの内容をまとめると、植松寺の創建時期については1222年から1335年にかけてのいずれかというのが最も正確な答えになるのだろう。
 


尼将軍碑銘(旧植松寺。現在は光安寺に)

 
このような経緯で建てられた植松寺だが、江戸時代になり「本山・末寺の制(本末制度)」が整えられると、植松寺は同じ浄土宗の光安寺と本寺・末寺の関係となる。「本山・末寺の制」を簡単に説明すると、仏教の宗派ごとにピラミッド型の組織をつくって全国の寺院を統制した制度である。

なお、光安寺は1590(天正18)年に創建され、植松寺よりも歴史は新しい寺院である。また、立地に関しても、環状2号線に石碑があることでイメージがしにくかったのだが、植松寺は東海道沿いに山門(入口)があり、当時の現地の状況から考えても植松寺の方が好立地にあったように思われる。しかし、なぜか光安寺が本寺で植松寺が末寺という関係になっており、そのあたりの理由も定かではない。いずれにしてもここで光安寺と植松寺の関係(立場)が明確になる。
 


先程の地図に東海道の位置を赤線で示す(Googlemapより)

 
 
 

廃寺後は小学校分校として利用


 
江戸時代に光安寺の末寺として存在した植松寺だが、幕末のころになると住職は光安寺の住職が兼務するようになり、さらに、1873(明治6)年の地租改正による物価高など社会の変動にともない少数の檀家でこれ以上植松寺を維持していくのが困難となり、植松寺を廃寺とし、光安寺に吸収合併する道を選んだとのことである。
 


植松寺廃寺願書のコピー

 
こうして1876(明治9)年に正式に廃寺となった植松寺の境内と一部の建物は1875(明治8)年7月から小学校(分校)の用地として使用されることになった。当初は平戸学校と呼ばれており、その後幾度かの名称変更を経て、1968(昭和43)年まで横浜市立川上小学校北部分校として使用されていた。
 


川上小学校北部分校(撮影時期不明、川上小学校創立100周年記念誌より)

 
終戦直後のころ、長谷川さんも北部分校に1年生のときだけ通っていたとのこと。同じころに撮影された空中写真で当時の様子がある程度分かる。植松寺跡地と光安寺を円で示した。
 


1948年撮影の空中写真。上円が植松寺跡地(国土地理院ホームページより)

 
長谷川さんの話では旧東海道から道(元の参道)が分岐し、校舎の手前に5~6段ほどの階段があったそうだ。空中写真でも分校の校舎のあたりがちょっと小高い丘のようになっているのが読み取れる。

木造の校舎で教室は一つ、先生1人に生徒は1年生のみ30~40人ほどだったとのこと。今の小学校のように整備された校庭は無かったものの周囲は畑ばかりなので遊ぶところには苦労しなかったそうだ。なお、川上小学校が現在の横浜新道近くの位置に移転するのは1972(昭和47)年のことで、当時は現在の横浜柏尾郵便局のあたりに位置していた。先程の空中写真に川上小学校の位置を表示する。
 


1948年撮影の空中写真。左下が当時の川上小学校(国土地理院ホームページより)
 


空中写真とほぼ同範囲の地図 (Googlemapより)

 
先述したとおり、植松寺跡は川上小学校の北部分校としておよそ90年使われたのち、1968(昭和43)年9月30日に廃止される。翌日には川上小学校北分校が開校し、こちらは翌年の4月から川上北小学校として分離独立し、現在に至る。
 


横浜市立川上北小学校地図、右側の丸が植松寺跡(Googlemapより)
 


現在の横浜市立川上北小学校

 
こうして北部分校としての役割を終えた植松寺跡地であるが、その後は新たに何かの施設として利用されることなく、基本的には放置されることになる。
そんな跡地に変化が訪れるのは北部分校廃止からおよそ10年後、環状2号線の工事が始まったことによる。