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中華街駐車場の3つの紋章に隠された横浜の歴史とは?

中華街駐車場の3つの紋章に隠された横浜の歴史とは?

ココがキニナル!

中華街の山下町公共駐車場の壁面の紋章が、関内の歴史的建造物やオフィスビルの紋章?模様?と似ている。駐車場と何も関係ない気がしますが、どのような意図でつけられたのでしょう?(1990dnさん)

はまれぽ調査結果!

紋章の謎を紐解くと、近代産業発展の歴史がよみがえってきた。人気観光スポット・中華街の駐車場にそのレプリカを掲げた設計者の胸中には、横浜のさらなる繁栄への願いが込められているようだ。

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ライター:結城靖博

駐車場建設当事者の横浜市を直撃


 
現在は民間のD-Parkingの駐車場になっているが、もとは「公共」だったのだから、というわけで横浜市に理由を尋ねてみた。

横浜市コールセンターにメールで問い合わせると、すぐに関係部署の都市整備局都心再生課に転送してくれた。そして翌日には、早くも同課から連絡をいただく。
ただし、「山下町公共駐車場を建設したのは横浜市建築助成公社なので、そちらに確認してもらいたい」との返事だった。

言われた通り同公社に連絡を入れると、まもなく担当部署から回答があった。
それによると、「建設から年月を経ているので確かなことはわからないが、おそらく横浜の観光名所・中華街という土地柄から、横浜の歴史的雰囲気をアピールしたいとの意図で、あのようなレプリカを装飾したものと思われます」とのこと。
ちなみに同駐車場は1996(平成8)年7月29日に新築されている。ついでに記せば、民間会社D-Parkingに建物が売却されたのは昨年、2018(平成30)年2月のことだ。

かなり抽象的な話ではあるが、ともかく横浜の歴史があの装飾に詰まっているということは確かなようだ。

どうやらここから先は、自分で調べるしかなさそうだ。というわけで、諸々の資料をかき集め、紋章・紋様の一つひとつに隠された歴史的背景を紐解いていくことにした。
 
 
 

横浜市開港記念会館の紋章の謎


 
「ジャックの塔」の名で親しまれる横浜市開港記念会館。まずはこの美しい建物の歴史をざっとおさらいしよう。

もともとここには「町会所(まちかいじょ)」が建てられていた。建設は1874(明治7)年。そして、町会所建設当初から、すでに時計台が据えられていた。
 

中華街駐車場の紋章
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」文明開化期(横浜市中央図書館所蔵)

 
開港後、外国人との生糸貿易が発展していく明治前半期、居留地との境界線に建てられたこのモダンな町会所は、日本人商人たちが寄り合うセンタースポットとしての機能を果たす。明治中頃まで町の主な会議や集会はすべてここで行われたという。

だが1906(明治39)年、建物は火災で焼失。復興を願う市民の声は大きく、横浜開港50周年を記念して、建設費をすべて市民の寄付でまかない建てられたのが「開港記念横浜会館」だった。完成は1917(大正6)年。
以来、講演会、会議、あるいは演奏会の場として市民に愛されるが、1923(大正12)年の関東大震災で、屋根が壊れ内部が火災にあうなど、ふたたび大きな被害を受ける。
下の写真は震災直後の本町通りの様子だ。
 

中華街駐車場の紋章
「山下町本町通ノ惨状」(横浜市中央図書館所蔵)

 
震災後の復旧工事は1927(昭和2)年に完了した。ところがこのとき、特徴的な屋根は復元されなかった。それがよみがえるのは1989(平成元)年のこと。市制百周年、開港130年の記念事業の一環としてかつての屋根が復元され、同時に国の重要文化財に指定される。

現在の「横浜市開港記念会館」の名称になったのは1959(昭和34)年だが、以上の経緯から、現在の建物の外観は1917(大正6)年の「開港記念横浜会館」建設時とほぼ変わらない。
 

中華街駐車場の紋章
復元された屋根の下には往時を偲ぶ「開港記念横浜会館」の名称が刻まれている

 
横浜の近代産業発展の象徴ともいえる「ジャックの塔」。その塔の中央にはめ込まれた紋章が中華街の駐車場にあるというわけだ。

それにしても、ジャックの塔の紋章は、なぜあのような奇妙な形をしているのだろう?
過去記事「横浜のシンボル『横浜三塔』、普段は入れない屋上からの景色を特別レポート!」によれば、その形は「蛾」を模したものだという。「蛾」といっても「蚕蛾(かいこが)」。つまり、近代横浜の発展に圧倒的に寄与した生糸産業を象徴したデザインだったのだ。
 

 

 

 
図柄を少し細かく分析してみると、次のようなことになるのか。

 

中華街駐車場の紋章
あくまで筆者の見方だが、当たらずとも遠からずでは・・・

 
同館の内部にも、似たような紋章が何ヶ所かある。
 

中華街駐車場の紋章
その一例。2階資料コーナーの扉の上の紋章
 
中華街駐車場の紋章
本町通りに面した玄関上の屋根の紋章もその一つ

 
近代における横浜の生糸貿易の繁栄は半端ではなかった。明治前半期、日本の生糸はほぼ100%横浜港から輸出されていた。その生糸類の輸出高は、明治中期のピーク時、日本の全輸出品の70%近くを占めていたのである。
つまり、生糸貿易による莫大な外貨の獲得は、この地だけではなく、日本全体の近代の殖産興業政策を牽引していたことになる。
 

中華街駐車場の紋章
「横浜本町通り」(横浜市中央図書館所蔵)

 
上の絵葉書は震災前全盛期の本町通りの光景。右手奥にジャックの塔が見える。
 

中華街駐車場の紋章
上の絵葉書とほぼ同じ位置からとらえた現在の本町通り
 
中華街駐車場の紋章
「横浜居留地本町通り」(横浜市中央図書館所蔵)

 
日本とは思えないような上の写真には「Y.MARTSUURA. SILK STORE」の看板が見える。絹織物商の活況が窺(うかが)える1枚だ。洋装の紳士のいでたちからは、金融機関が林立し「日本のウォールストリート」と囃(はや)された空気も伝わってくる。