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東横線沿線の駅はかつて馬車の駅だった!? 横浜発祥、「乗合馬車」が走っていたころについて教えて!

ココがキニナル!

東急東横線が開通するまで、横浜には乗合馬車が走っていて、綱島から二ツ谷までを1時間ほどで走っていたという。停車ポイントも10ヶ所前後あったよう。乗合馬車について詳しく知りたい(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

大正時代のはじめごろ東神奈川東口から二ツ谷を抜け約10ヶ所綱島まで走っていたが乗合自動車に変わり東急東横線開通後は廃止

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ライター:ほしば あずみ

横浜は「乗合馬車」発祥の地



横浜は日本における「乗合馬車(不特定多数の客を乗せ、時刻表にしたがって一定の路線を運行する馬車)」発祥の地でもある。まずは、その起こりを振り返ってみたい。
横浜開港によって、外国人居留地へやってきた外国人たちがもたらした西洋文明のひとつが馬車だ。
 


毎年秋に馬車道通りで再現される乗合馬車(提供:馬車道商店街協同組合)


『横浜市史稿』の「風俗編」にある「乗合馬車」の項には、馬車をはじめて見た当時の人々が「異人馬車、やぐら車、馬ひき車」などと呼んで、驚異と感嘆の目で見ていたと記されている。
 


「横浜吉田橋ヨリ馬車道之図」三代広重(横浜中央図書館所蔵)
 

同錦絵の部分拡大。二頭立ての馬車に乗る人々の姿


吉田橋から本町にかけて1867(慶応3)年3月に馬車を通すために整備された道が、今日の「馬車道」の起こり。

1870(明治3)年ごろに描かれた錦絵には、吉田橋付近を行き交う人々や馬車、荷車、人力車などがにぎやかに描かれている。吉田橋は外国人居留地と隔てる関門が1871(明治4)年まで置かれ、関内(馬車道側)、関外(伊勢佐木町側)という言葉のもとになった場所だ。
 


絵葉書に描かれた明治後半から大正時代にかけての馬車道通り(横浜中央図書館所蔵)
 

整備された通りを荷馬車が走っている様子が描かれている


同年の秋には、居留地三十七番館のサザランド(のちにコブ)馬車会社が京浜間の乗合馬車の営業を開始する。朝8時、午後1時半の2便、片道2時間半かかったという。運賃は当時の値段で2ドルだった。
幕末期は貨幣価値の変動が激しく現在のそれに換算するのは難しいが、新幹線を利用するような感覚に近かったのではないだろうか。この乗合馬車は日本人も乗ることができた。
 


馬車道十番館の前の牛馬飲水槽(1917<大正6>年に磯子区八幡橋に設置されたものを移設)


複数の外国人経営者が参入するなか、日本人で最初に乗合馬車事業を始めたのは、下岡蓮杖(しもおかれんじょう)。幕末から明治時代にかかえて横浜で写真館を営み、長崎の上野彦馬とともに「日本写真の開祖」とされる人物だ。
 


下岡蓮杖。名は久之助(ひさのすけ)
 

馬車道の神奈川県立歴史博物館近くにある下岡蓮杖の顕彰碑


下岡蓮杖は、同時期に乗合馬車開業を出願した8人との連署で、1869(明治2)年から「成駒屋(なりこまや)」という乗合馬車の営業を開始する。吉田橋脇の角地に馬車発着所を設け、東京の方は日本橋際まで運行、新橋際の閉店した松坂屋の後を借り入れて溜まり場とした。
 


先述の錦絵も、よく見ると確かに橋のわきに「馬車所」が見える


成駒屋の乗合馬車は外国製の2頭立て6人乗り。料金は3分(75銭)で4時間かけて走行した。当時のかけそば1杯の値段は5厘。横浜から東京に行く金額で150杯食べることができたことになる。
 


当時の馬車ルート(『横浜市史稿「風俗編」』、「乗合馬車」の項参照)


「成駒屋」は馬車も馬も次第に増やし、1872(明治5)年、京浜間の鉄道開通で廃業するまで、25台の馬車と60頭の馬で往復し莫大な利益を得たという。