東横線沿線の駅はかつて馬車の駅だった!? 横浜発祥、「乗合馬車」が走っていたころについて教えて!
ココがキニナル!
東急東横線が開通するまで、横浜には乗合馬車が走っていて、綱島から二ツ谷までを1時間ほどで走っていたという。停車ポイントも10ヶ所前後あったよう。乗合馬車について詳しく知りたい(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
大正時代のはじめごろ東神奈川東口から二ツ谷を抜け約10ヶ所綱島まで走っていたが乗合自動車に変わり東急東横線開通後は廃止
ライター:ほしば あずみ
東神奈川~綱島の乗合馬車
投稿にあった「東神奈川(二ツ谷町付近)から綱島まで1時間ほどかけて走っていた」という馬車についてはどうだろうか。
1901(明治34)年10月、国鉄「神奈川駅」と「程ヶ谷駅(当時は保土ケ谷ではない)」の間に「平沼駅」が開設されたことに伴い、平沼駅を起点にし、前田橋間(9銭)、平沼・西ノ橋間(9銭)、亀ノ橋(9銭)、車橋間(10銭)という3区間に乗合馬車があったことが『横浜市史稿』に記載されていた。いずれも3年で廃業、経営者が誰であったかも不明(「平沼駅」そのものも、1915<大正4>年に廃止されている)。
東神奈川駅の改札口付近にある「大正時代の東神奈川駅周辺地図」
しかも、「東神奈川駅」発着の乗合馬車について『市史稿』はふれていない。投稿者は言っていたのはこの区間ではなさそうだ。
該当するであろう記述があったのは1912(大正元)年生まれの女性が、思い出をつづった随筆『雀のお宿』(山室まさ著/1999<平成11>/とうよこ沿線編集室刊)。
それによると、大正初期に「東神奈川駅」東口から、今の旧道の綱島街道を六角橋から綱島まで走った乗合馬車が出ていたという。
上記地図の駅付近を拡大。東神奈川駅が開設されたのは1908(明治41)年
御者は左手に真鍮のラッパを持ち、右手で手綱をさばいていたそうだ。
ちなみに、この真鍮のラッパは明治時代から乗合馬車の御者が吹いていたようで、当時の落語家、四代目橘家圓太郎(たちばなやえんたろう)が御者を真似てラッパを出囃子(でばやし)がわりに吹き、高座にあがったことで一世を風靡。「ラッパの圓太郎」と呼ばれたことから、当時、乗合馬車を「圓太郎馬車」とも呼んだ。
6人乗りの幌がついた馬車で、舗装されていない道をガタガタ走るので乗り心地は悪かったようだ。
同じく、東神奈川駅改札付近の展示写真より
乗合馬車のルートは、正確な停車ポイントを記載した資料はないが、東神奈川駅東口を出ると二ツ谷町を抜けて、斎藤分町、六角橋、白幡、仲手原、菊名、太尾、大曽根、綱島など約10ヶ所前後進んだ。現在の東横線のほぼ沿線といえる。運賃は15銭。ちなみに大正初期、銀座木村屋のあんぱんが1個2銭だった。
約1時間ほどかけて走った(Googleマップより)
(参照:『わが町の昔と今「港北区編」』/とうよこ沿線絵編集室刊)
乗合馬車はその後まもなく、「銀色の小さな乗合自動車」に変わったものの、1923(大正12)年の関東大震災や1926(大正15)年の東急東横線開通によってこの路線は姿を消したという。
乗合馬車、乗合自動車ともに経営者は不明だが、東横線開通以前は東神奈川から綱島まではこれが唯一の「交通機関」だった。
現在の東神奈川駅
東口付近。かつてこのあたりのどこかに乗合馬車の発着場所があった
もう一方の発着場所だった綱島の方も見てみよう。
「かつて綱島は温泉町として有名だったって本当!?」でも紹介したように、綱島一帯が綱島温泉としてレジャー化するのは東急線開通に合わせてのことだが、温泉が湧くことは、明治末期から大正はじめにかけて、すでに知られていた。
戦前の綱島温泉全景の写真葉書。左上に東横線の高架が見える(横浜中央図書館所蔵)
この写真葉書は、綱島温泉にあった「水明楼(すいめいろう)」という旅館がお土産用に作っていたもので、すでに東横線が開通しにぎやかになっている綱島温泉の全景である。
東横線開通以前には鶴見川のそばに「入船亭(のちに割烹旅館入船本店)」という旅館があり、その前が綱島側の乗合馬車発着場所だった。
昭和50年代までは営業していたという綱島で最も古い旅館のひとつ「入船本店」
現在は、貸し駐車場として利用されているようだ
旧「入船本店」前から、大綱橋方面をのぞむ
取材を終えて
かつてはこの道を、乗合馬車がガタガタと揺れながらやってきた、もしくは東神奈川の駅前を御者が吹きならすラッパの音とともに馬車が駆けていった。その面影をさがすのは今となっては難しい。
だが、耳をすまし目をこらせば、文明開化とともにやってきた馬車の車輪の響きは町のどこかに残っていて、幻を見せてくれるかもしれない。
―終わり―