検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

アーティスト「矢沢永吉」さんは、トップスターになる夢を横浜でどのように過ごし育んできたのか、徹底調査!

ココがキニナル!

矢沢永吉さんが昔弘明寺に住んでたと聞きました。当時の矢沢さんを知る方々は弘明寺にいる?若い頃の矢沢さんがどんな方だったのか、なぜ弘明寺なのか調べてもらえますか?(yujunaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

矢沢永吉さんはアルバイト先の下宿があったため弘明寺に住んでいた。元バンドメンバーによると当時から音楽センスがずば抜けていたとのこと

  • LINE
  • はてな

ライター:小方 サダオ

矢沢永吉・・・。いわずとしれた日本のトップスターと呼べるアーティストだ。そんな彼は横浜からアーティストとしての活動を始めた、という。
その軌跡を追うために、彼の自叙伝『成りあがり』を入手。それによると、「広島出身の彼は東京に向かう途中、無意識に横浜で途中下車した」という。

そこで「横浜」という章に登場する、横浜を中心とした彼が生活した場所と演奏したライブハウスなどを実際に探し、彼の目撃証言などを集めてみることにした。
 


矢沢永吉の自叙伝「成りあがり」




矢沢さんの生活した場所とは?

まずは「矢沢さんが横浜に着いて最初に住んだ場所」である、弘明寺に向かうことにした。『成りあがり』によると「横浜駅で降りたあと、伊勢佐木町を歩いていると『ボーイ求む』という宿泊込の食堂の張り紙を見た。応募すると弘明寺のアパートに入れられた」とある。
 


京浜急行弘明寺駅
 

にぎわう弘明寺商店街


平日の昼間ながらにぎわう弘明寺商店街で聞いてみると、矢沢さんのファンが経営する「レストラン マコト」がある、という。
 


弘明寺にある「レストラン マコト」


早速直行し事情を話すと吉田店長が、矢沢さんが住んでいたアパートの場所を教えてくれ、さらに近くに住む知り合いのファンや事情通を集めてくれる、と約束してくれた。
 


矢沢さんが住んでいたアパートのあった場所
 

現在はハウスKという名前になっている


そこで後日約束の日に行くと、数名の人達が集まってくれていた。矢沢さんと弘明寺にまつわる話を中心に伺った。
 


「レストラン マコト」の店長の吉田さん


まずは矢沢さんを「神」と敬う、吉田さんに話を伺うと、
「2010(平成22)年の横須賀で行われたコンサートに行った時、『この前懐かしくなって朝早く弘明寺に行ったんだ。京浜急行で駅について降りたら、様子が変わってて道に迷った。それで地下鉄の入り口前からタクシーで帰ったよ』とMCで話をしていました」と教えてくれた。

矢沢さんは40周年を迎えて原点回帰の思いで、青春時代の自分を振り返っているのかもしれない。今この記事を書くのはタイミングとして悪くない、と感じ、やる気が出た。つづいて弘明寺で食鳥肉店に勤める石川さんに話を伺う。
 


自慢の矢沢グッズ・ビーチタオルを広げる石川さん


石川さんは「1974(昭和49)年、中学生のころに永ちゃんを知って、好きになった。弘明寺の洋服店・カネギンの親父が『矢沢はここでコート買ってんだよ』と自慢してたのを聞いたことがあるよ。」
 


"洋服店・カネギンのあった場所。左奥が石川さんの店・とり忠(とりちゅう)"

 
日産スタジアム50周年コンサートDVDを見たら、「横浜に来たころ、野毛山の展望台に上って、冷たい風来て、『寒いなぁ、怖いなぁ、俺、この先どうなっちゃうんだろう?』って不安になったのを憶えている」という場面があったよ」と教えてくれた。
 


野毛山展望台
 

展望台からは横浜の町が一望できる


さらに“弘明寺の重鎮”と呼ばれている、弘明寺で生まれ育った小川さんに話を伺う。
「自分が30才、彼が25才の時、彼が弘明寺を離れて有名になり始めたころにはじめて、『そういえばそんなやつがいたな』と気づいた。
彼がいたころは、近所同士の『音楽やってるらしいよ』と言ううわさ程度でしか知らなかった。実際に商店街をウロウロしているのを見かけたことはあったよ」
 


日本酒“弘明寺”をコンサート時に贈るファンがいる


弘明寺は「人情に厚い街」といった印象だ。矢沢さんが故郷を出て初めて住む場所としては居心地が良かったのかもしれない、と感じた。
 


大岡川の桜祭りでにぎわう弘明寺


つづいて「川崎に住んでいた」と『成り上がり』の本文にあるので、当時の住居を探すことに。川崎在住のファンに教えてもらい、京浜急行のとある駅の近くに、昔住んでいたアパートを発見した。
 


京浜急行・川崎駅


「のり江」という飲食店の店主に、当時の矢沢さんについて伺った。
「ここの2階に住んでたよ。今から40年以上前この店をオープンした年に、矢沢さんと奥さんと子どもの3人で『住みたい』と頼んできた。その後奥さんの母も隣の部屋に住むようになったよ」とのこと。
 


飲食店・のり江の2階が矢沢さんのアパートだった


彼の印象については、
「彼は普通の細身の若者といった感じだったよ。奥さんはスラッとしたきれいな人でね。当時3人は奥さんの母親の援助を受けていたんじゃない?」
 


裏手にあるアパートの階段


「矢沢さんは彼女を恩に思っていたようで、奥さんと別れて再婚後も、彼女に年に一回くらい会いに来てたよ。義理堅い人なんだね」と答えてくれた。

川崎のこの辺りは、横浜と東京の中間地点、両方の仕事場に通うのに便利な場所だったのではないだろうか。