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繭から糸を取る「繭糸(けんし)」取引でにぎわっていた!? 当時の「長津田」の様子について教えて!

ココがキニナル!

かつて長津田には桑畑が広がっていて、現在の駅前付近に大きな「繭糸取引所」があったそうで、蚕の繭が各消費地へと送られていたのだとか。当時の長津田について詳しく知りたいです(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

長津田は、地域一帯に桑畑が広がる農業地帯だった。また「長津田宿」には金融機関や飲食店、呉服店など17の店舗があり、にぎわっていた。

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ライター:橘 アリー

大山街道の宿場町だった!



今回の調査は、繭糸(けんし)の取引でにぎわっていたころの長津田の様子について。
「繭糸」とは、繭からとった糸のこと。以前、筆者は、横浜の養蚕(ようさん)と横浜生糸検査所について調査している。

養蚕は、かつて横浜市内の多くの地域で盛んに行われていて、長津田もその中の一つであった。
 


繭のイメージ(フリー画像より)

 
長津田は、1939(昭和14)年に横浜市に編入されて、都筑郡から旧港北区に属するように。1969(昭和44)年の分区によって誕生した緑区に属している。

そして、江戸時代から大山街道(東海道と甲州街道の間の江戸へ向かう道)の宿場町として栄え、現在でも、JR横浜線、田園都市線、こどもの国線が乗り入れている長津田駅があり、交通の便の良いところである。

では、長津田の養蚕の歴史を辿り、繭糸の取引でにぎわっていたころの長津田の様子を調べていくことに。

さっそく、緑区在住の郷土史研究家の相澤雅雄さんにお話を伺った。
 


相澤雅雄さん
 

相澤さんの著書『横浜緑区―歴史の舞台を歩く』

 
相澤さんは神奈川新聞やタウンニュースなどにも、地域の歴史について連載執筆しているそうだ。

まずは、長津田での養蚕の歴史についてうかがった。



関東大震災がきっかけだった!?



江戸時代後期の武士であり画家でもあった渡辺崋山(かざん)が、相州(相模の国)へ旅した様子を書いた『游相(ゆうそう)日記』。それによれば、長津田を通りかかった際、“養蚕と織を両方やるのは不利である。そのため、八王子は織を専らにし、長津田、鶴間は養蚕を専らにしている”という話を聞いた、と書かれている。つまり、長津田では、江戸時代の後半には、すでに養蚕が行われていたようだ。
 


渡辺崋山「游相日記」と大山道の資料(相澤さんの資料より)

 
鎖国政策が終わって明治時代になると、生糸の輸出が行われるようになり、養蚕はますます盛んになって行った。

なお、長津田があった都筑郡(現在の都筑区・緑区・青葉区の全域、及び瀬谷区・旭区・保土ケ谷区・港北区・川崎市麻生区の一部)での養蚕の最盛期は、明治後期から大正時代にかけてのころであるそうだ。

1920(大正9)年の神奈川県の調査によると、都筑郡内の全農家のうちの46%が養蚕農家で、都筑郡の中での桑畑の面積数は、田奈村が1位だったようだ。
田奈村というのは現在の長津田があった地域なので、長津田がほかの地域よりも桑畑が多く養蚕が盛んだったことが伺える。

これで、養蚕が盛んに行われていた明治から大正にかけて、長津田は、農家の約半数が養蚕を行っていて、桑畑の多い地域だったと分かった。