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ココがキニナル!

中区根岸台の横浜競馬場跡のスタンド下に文寿堂という印刷会社があり、日本軍の重要な印刷機関だったそう。また近くの簑沢地区は、文寿堂で働く人の住宅だったそう。当時の状況を取材して!(tokuさん)

はまれぽ調査結果!

文寿堂は1880年創業。当時の横浜を代表する企業で1943年から日本海軍の印刷物を扱い根岸競馬場で営業。簑沢台には従業員の住居もあった。

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2015年02月19日

ライター:三輪 大輔

「それは簑沢(みのさわ)じゃねえ、簑沢台のことだ。ここは簑沢で、あっちが簑沢台。台がつく方に、その印刷会社関連の家がたくさんあったね」

そう言いながら、老人は簑沢台と呼ばれる地域を指し示した。古希はとうに過ぎたであろう高齢の男性が指す方を確認すると、そこは根岸競馬場のメインスタンドの右側辺りであった。

戦時中に根岸競馬場で操業していた文寿堂(ぶんじゅどう)という印刷会社があったという投稿から、それについて市役所、区役所、資料室、博物館と多くの施設に問い合わせてみたが、あまり収穫はなかった。特に働いていた方々の住宅地の場所に関する手がかりは、雑誌や書籍に出てきた記述だけしかない。

そこで、実際に現地に行って聞き込み調査を行った。数名の方にインタビューをしてみたが、老人の話は、先ほど近所でお話をお伺いした還暦前の女性の話とも符合する。どうやら簑沢台に文寿堂で働く人々の住宅があったことは間違いないようだ。
 


文寿堂で働く人々の住宅があった簑沢公園


「もしかしたら簑沢公園の辺りですか?」と尋ねると、老人は頷きながら、さらに詳細な説明を付け加えてくれた。

「そうそう、そこ。その辺りがちょうど中心地だったね。今も印刷関係で働いている人や、自分で印刷業をやっている人が多いんじゃないかな。もっとも、昔のことだから、普通の勤め人をやっている人もいるがね」
 


簑沢公園から望む、根岸競馬場のメインスタンド


「簑沢台の自治会館なんかもあるから、興味があるなら行ってみるといい」と老人は言うと、簑沢台とは逆方向に歩いて行った。

平日の午後の昼下がり。犬の散歩をしている人や下校中の小学生で、辺りには牧歌的な時間が流れている。メインスタンドの裏手にある遊具では、子連れの親子が遊んでいた。円形の芝生には温かな日差しも差し込んで、戦争という言葉とはあまりにも程遠い土地のように感じる。

しかし、住宅街を抜けて簑沢台自治会館に行く途中、確かに簑沢台が文寿堂の従業員の住宅街であったような面影に遭遇した。平屋の長屋が密集している地域があったのだ。
 


簑沢台の自治体掲示板の後ろには根岸競馬場のメインスタンド


文寿堂で働いていた方の寄稿文が掲載されている『印刷雑誌』には、このように書かれている。

「鉄骨製の競走馬用の馬小舎を棟割長屋式(むねわりながやしき:一棟の建物を壁で仕切って分けること)に改造、何十世帯の人達が住んでいた。現在でも永年の居住権が認められて、同じ場所に家を建て住まわっている人たちもいる」

確かに、そこは記載通りの雰囲気がある地域であった。しかし一方で、『根岸の森の物語』によると、簑沢台は戦後、国と20年近い争いを続けた結果、国有地の払い下げを受けて住宅地として存続したとある。微妙な感情も入り乱れているのだろう、実は現地の取材では簑沢台について話したがらない人もいた。
 


長屋造りで年季の入っている簑沢台自治会館


文寿堂が根岸競馬場で営業をしていたのは、1943(昭和18)年からの7年間。さらに会社として開業したのは1880(明治13)年である。戦後70年を迎えた今、戦争を生き抜いた方の記憶の多くが、書籍にも残らず時の彼方に消え去っていく。135年も前となると、その事実を記載した書籍に当たるのも難しくなる。

それでも調査して分かったことは、かつて確かに横浜を代表する千数百名の従業員がいた大企業である文寿堂が存在し、根岸競馬場で海軍関係の印刷物を扱っていたこと。そして栄華を極めた後、僅かな書籍にその軌跡を残し、歴史の狭間に消えていったということだ。その残された記述をもとに、当時の様子を追っていってみたい。



文寿堂の始まり

文寿堂は佐藤繁次郎(さとう・しげじろう)によって、1880(明治13)年に文房具店として馬車道に設立される。当時、小売のスタイルは行商がメインであり、繁次郎も文具を箱車に載せて行商に回っていた。しかし、文房具屋でさえ行商を行う時代である。市内は、多くの行商が行きかい、ライバルがひしめき合っていた。
 


1940(昭和15)年に出版された『今日を築くまで:立志奮闘伝』に記述が残る文寿堂の歴史


繁次郎は、商売が繁盛する方法はないものかと頭を悩ませた。そんな時、目をつけたのが「欧米」である。明治時代には文明開化とともに、西洋文化が日本に流入し、「西洋のものはいいものだ」という風潮があった。そこで繁次郎は箱車に「欧米各国文具屋文寿堂」という文字を大きく書いて行商を開始。すると「欧米」という言葉が、西洋化の進んだ人々の目に止まって商売は繁盛し、文寿堂は一躍、当時の人気店になった。このとき、佐藤繁次郎は27歳であったという。

事業発展の足がかりをつかんだ繁次郎は、次の一手を打つ。その時、目を付けたのが西洋の革手帳であった。日本の手帳の歴史は、1862(文久2)年に、福沢諭吉がフランスから持ち帰ったことから始まるが、繁次郎はこれに商機を見出したのである。しかし革手帳の作り方は分からない。

 
そこで、専門外の職人に革手帳の製作を依頼し、20数回つくり直した挙句、完成させた。こうしてでき上がった名前入りの革手帳は人気を博し、銀行、一般的な企業、商店などの85%が取引先となるまで事業が拡大する。
 


文寿堂が営業を行っていた大正時代の馬車道付近の様子(資料提供:横浜市史資料室)


そして佐藤繁次郎の同名の息子である2代目の繁次郎の時には、売上は3倍に膨れ上がり、文寿堂は当時の横浜を代表する会社となるまで成長した。

ここで話は、もう一方の主役である根岸競馬場に移る。
 
 

 

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