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教科書に載っていない歴史がここに! 革命家「孫文」の知られざる横浜中華街での結婚生活とは?

ココがキニナル!

中華民国建国の父、孫文が1898年、横浜中華街で日本人妻大月薫さんと結婚していた。どういう経緯で知り合い、結婚に至った?結婚後孫文は中華民国樹立までに横浜でどのような活動をした?(ひろりん。さん)

はまれぽ調査結果!

大月薫さんは父親の知人を介して日本に亡命中の孫文と出会い、孫文が一目ぼれして1902年(1903年ごろ)に結婚。孫文は横浜で革命の準備をした

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ライター:ムラクシサヨコ

孫文と大月薫の結婚



ではここで、孫文と大月薫の結婚について簡単に説明を。

中国で武装隆起をして失敗した孫文は命を狙われ、日本に亡命していた。日本にはたくさんの支援者がいること、同郷出身の華僑がたくさんいたことなどから横浜の地は都合がよかったのだ。横浜では温炳臣という人物が孫文の支援をしていた。孫文は、1898(明治31)年、横浜山下町121番地の温炳臣宅に身を寄せる。
 


当時の横浜居留地(フリー画像より)


一方、商家の娘だった大月薫は、家族とともに横浜に暮らしていた。横浜高等女学校(後に共立英和女学校に転校)に通う美しく聡明な、しかしごく普通の女子であった。
 


もう一度、大月薫(フリー画像より)
 

明治末期の横浜高等女学校『ゆかりの白梅』より


運命が動き出したのは、1899(明治32)年8月12日。伊勢佐木町で火事があり、瞬く間に延焼し、横浜市内が火の海と化したのだ。この火災は後に「雲井町大火」と呼ばれ、横浜開港以来の大惨事として知られている。横浜市内の史跡を調べると「雲井町大火により焼失、その後再建」という記述に出くわすことが多い。7時間以上延焼し続け、3000戸あまりが被災するという大規模な火災であった。

大月薫一家は早くに避難したため無事だったが自宅は全焼。父親の知人だった温炳臣の家に間借りする。こうして、同じ家の1階に孫文、2階に大月薫一家が住むことになったのである。
 


孫文と大月薫が出会った山下町121番地付近


孫文は、当時革命を目指す若者として注目されていたが、時は辛亥革命の前。まだまだその名を知る人は少なく、大月薫も後に「中華民国の父」となるなど想像もしていなかったであろう。

孫文は2階に住む美しい少女に一目ぼれしたと言われる。薫の両親に結婚を申し込むがまだ若すぎるという理由で断られてしまう。その1年後、薫本人に求婚し、1902(明治35)年(※1903年という説もあり)、二人は結婚することになる。このとき孫文は38歳、薫は16歳の高校生。当時は早婚だったことを考えても、やはり若く、そして年の差のある結婚だった。
 


中区山下町、神奈川芸術劇場(KAAT)横には居留地のレンガ遺構がある
 

外国人居留地の建物の多くは関東大震災で崩壊した
 

2007(平成19)年の調査により発掘された居留地の遺構が展示されている


孫文は当時、亡命者として日本の警察がマークしていたため、支援者に会いに行くなどの一挙一動が記録に残っている。しかし大月薫は革命家でも政治家でなく、ごく普通の一高校生であり、また共に暮らした期間が短かったからか、公的な記録はされていなかった。

結婚して1年後には、孫文は国内外に飛び回り、 孫文はアメリカ、ハワイ、ハノイなどから手紙を送ってきたという。薫が19歳のとき、孫文は再来日。孫文が再び日本を離れた後に、妊娠が判明する。孫文は横浜に戻ることはなく、薫は一人で出産。娘に文子と名付けた。この名は孫文の「文」からとったといわれる(後に冨美子と改名)。
 


台北市内の孫文の銅像(国父紀念館内)


愛する人と結婚し子をもうけたのに父親が世界中どこにいるかも、帰るつもりがあるのかないのかも分からない、こんな事情で子を里子に出すしかなかった薫。

一方、孫文はというと、薫をほったらかしにしたわけではなかったようだ。何度か手紙を送っており、関係者の証言によると薫に再会しようとしたこともあったという。

しかし、薫は再会を断っている。病気があったのか、それとも今更あっても仕方がないと思ったのか・・・。理由までは分からない。孫文は、自分の娘が生まれたことは薫からの手紙で知ったようだ。孫家では「日本人との間に生まれた娘がいる」との話は伝えられていたので、隠していたわけではない。
 


山下町公園。孫文が横浜にいた当時、ここに清国の領事館があった

 
久保田さんによると「調査中に『孫文の孫娘さんが、孫文には日本に娘がいると言っていたと信頼できる方から聞きました」とのこと。
「調査中、ハワイに住む孫文の孫娘という女性にお会いしました。彼女は『曽祖父である孫文は、日本に娘がいたと聞いている』と話していました。このことから、家族にも冨美子さんの存在を話していたと分わかりました」

余談だが、後に、孫文の孫娘と宮川冨美子さんの孫娘が、昨年(2014<平成26>年)11月の2人そろって神戸での孫文記念館行われたの銅像除幕式に出席。二人は初体面し、その後、大変良好的な関係を結んでいるという。
 
残念ながら今回の取材では宮川冨美子さんの写真は掲載はできないが、読者のみなさまには孫文のその面影から想像してみてほしい




太平洋戦争が勃発。運命に翻弄された大月薫



孫文は薫の元から去った後、辛亥革命を経て、中華民国建国に尽力し、歴史に名を残す偉業を成し遂げる。薫もきっと驚いたことだろう。
 


中華民国建国を祝うポスター


しかし太平洋戦争が勃発し、日中は敵対国に。大月薫も、事情を知る人も、冨美子さんの父親が孫文だとは口にできなかった。これが、長い間、冨美子さんの両親が誰か分からなかった理由である。

戦後、冨美子さんは母親の薫と再会。事情を知り、自分が捨てられたのではないと知ることになる。
 
 

「孫文に日本人の妻がいた」と公表するまで



久保田さんの研究調査の後、現在は大月薫の存在は公的に認められることとなった。しかしそれまでの道のりは決して平たんなものではなかった。

「孫文は中国でも台湾でも、偉大すぎる英雄です。私は宮川冨美子さんが自分の両親のことを確かめたいという依頼に応えたいと思って調査を引き受けましたが、公式に発表することにはためらいがありました。調査の資料はごくプライベートな手紙なども多かったですし、歴史上の人物の私的な部分を明らかにすることがいいのかどうか、悩みました」
 


孫文は台湾のお札にもなっている


久保田さんは、研究会で台湾人学生から「愛情問題は歴史をつくった一部であり、そこを避けて通るべきではない」という発言があったこと等に背中を押され、研究結果を公表した。1984(昭和59)年のことだ。

「地方紙に掲載されるくらいかと思ったら、全国紙から取材の問い合わせが相次いで驚きました。日本における孫文への関心の高さもよく分かりました」
 


台湾・台北市内の国父紀念館。孫文の業績をたたえる巨大な建造物だ


日本では驚きの新事実として報道されたが、中国・台湾では違った受け止められ方をした。孫文は尊敬すべき偉大な人物だ。スキャンダラスな話を公表されては具合が悪いのだろう。神聖視されていた英雄のイメージを汚すとして嫌がられたようだ。

久保田さんの研究結果をよく見ることもなく「あいつの言うことはでたらめだ」などと罵倒されてしまう。しかしその後、久保田さんの研究は認められ、現在は大月薫の存在は広く知られるようになった。

最後に、大月薫とはどんな女性だったのか、久保田さんに聞いてみた。
 


孫文が大月薫と出会った時にすでに存在していた横浜關帝廟


「調査の途中で出会った人誰に聞いても“いい人だ”と口をそろえていました。素晴らしい人柄だったのでしょう」

運命に翻弄されながら過酷な人生を強くしなやかに生き抜いた大月薫。孫文と出会った山下町121番地は、現在の横浜中華街の一角に位置している。足を止める人もいないが、ここから大きなドラマが生まれたのである。
 


山下町121番地付近は、現在は中華街の中に埋もれている




取材を終えて



中国、台湾では、偉大な「国父」として尊敬されている孫文。中国本土では、孫文の故郷、香山(こうざん)県は中山(ちゅうざん)市と改称され、広州市には名門の中山大学があり重要都市には「中山路」「中山街」などの地名が多くあり、中山公園も非常に多い。

永く国民党支配下にあった台湾でも地名や駅名、学校名などに中山という名をあちこちでみかける。この「中山」は孫文のことだ(孫中山という名で活動していた)。

中国・台湾にとっていかに偉大な人物かがうかがえる。そんな孫文が日本人の高校生と結婚していたとは驚きの事実だ。数奇な運命をたどった大月薫。悲劇の女性に終わらず、その後の人生をたくましく生き抜いた。薫を直接知る人はみな口をそろえて「素晴らしい人柄の女性だ」と語っていたという。孫文が薫に何度も手紙を送ったり、子どもがいることを家族にも話していたりしたことを知り、少しほっとした気持ちになった。孫文は決して遊びのつもりではなかったのだ。
  


関東大震災等によって外国人居留地の建物は崩壊した

 
外国人居留地の建物の多くは関東大震災で崩壊してしまい現存していないが神奈川芸術劇場横に、工事によって発見された居留地の遺跡が展示されている。
 


横浜開港資料館

 
なお、当時の外国人居留地については、横浜開港資料館の企画展示「異国の面影 — 横濱外国人居留地(きょりゅうち)1895 —迷いこんだのは、120年前の地図の中」(会期:2015<平成27>年7月12日(日)まで)に詳細が展示されている。孫文が暮らしていたころの居留地の様子も展示してあり、興味深い。

 
―終わり―
 

参考文献
久保田文次『孫文・辛亥革命と日本人 (汲古叢書)』2011年
 

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  • いいかげんすぎる

  •  でも、中国では孫文が日本にいたことや辛亥革命に日本の協力者がいたことは無視されている。

  • 孫文先生の偉大さよ。今年の双十節にはこの記事のことを思い出しながら中華街を訪ねてみようと思います。辛亥革命って何?という方はこちらが超わかりやすい→http://kids.gakken.co.jp/jiten/4/40007800.html

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