横浜を代表する近代建築、山下町のレトロモダンな「インペリアルビル」に突撃!!
ココがキニナル!
山下町にあるインペリアルビル。日本初上陸のアパレルやおしゃれなテーラー、タモリ倶楽部に出ている安斎肇さんが引越してきたという噂もあるのでキニナル!(パシフィコのバンボービー!さん)
はまれぽ調査結果!
インペリアルビルは建築家・川崎鉄三が設計し、1930年に外国人向けのアパートメントホテルとして建てられた。2011年、横浜市歴史的建造物に認定!
ライター:大和田 敏子
投稿を見て、インペリアルビルの場所を調べてみた。地図で見ると、山下町の神奈川県民ホールのすぐ近くらしい。
その辺りなら、何度も行ったことがあるはずなのだが、そんな古いビルがあっただろうか。どんなビルなのか思い浮かばない。まずは現地に行って確認してみることにした。
神奈川県民ホール
この裏手にある通りに行ってみると・・・
「インペリアルビル」の文字のあるビルが見えた
中央がインペリアルビル
遠目に見る限りでは、両隣のビルと違和感なく並んでいて、それほど古いようには見えないのだが、近づいてみると・・・
エントランスには、歴史ある建築物の雰囲気が漂っている
インペリアルビルの歴史、建物の特徴は?
なんだか歴史がありそうで、このビルのことが、すごくキニナってきた。
インペリアルビルのオーナー、上田正文(うえだ・まさふみ)さんに話を伺った。
たくさんの資料を用意してお話してくれた上田さん
インペリアルビルは、1930(昭和5)年、外国人専用アパートメントホテルとして建てられたという。施主は上田さんの祖父、上田要蔵(ようぞう)さんで、もともと「上田屋ビルディング第二号館」という名称だったそう。一号館はホテルニューグランドの裏にあり「オリエンタルビル」という名前だったという。
当時、最新の長期滞在型のホテルで、水洗トイレ、シャワー、お風呂、台所、暖房設備、扇風機、家具などが備え付けられていた。外国人商社マンを相手とした、今でいうワンルームマンションのはしりのようなものだったのではないかとのことだ。
玄関ホールに飾られているビル竣工の記念写真
設計は、アントニン・レーモンド、山越邦彦(やまごし・くにひこ)とともに、戦前の横浜でモダニズム建築を先導した川崎鉄三氏。川崎氏の設計した作品のうちインペリアルビル以外に現存するのは、海岸通りにあるジャパン・エクスプレス・ビルとカスタム・ブローカー・ビル(現、昭和ビル)だけだという。
1930(昭和5)年竣工のジャパン・エクスプレス・ビル
1931(昭和6)年竣工のカスタム・ブローカー・ビル
インペリアルビルは、1923(大正12)年の関東大震災の後、復興建築という名目で関東大震災レベルの地震にも耐えられる建物として設計され建てられたのだという。実際に、周囲の建物に比べた地震の揺れは小さく、2011(平成23)年の東日本大震災の際も、柱1本曲がったり、折れたりするようなこともなく、何の問題もなかったそうだ。
震災時にも安全な建物であるとの証明(こちらは、原文を転記した書面)
インペリアルビルは日本建築学会編纂の『東京・横濱復興建築図集』に、横浜の復興建築を代表するビルの一つ「横浜外人アパートメント」として掲載されている。
『東京・横濱復興建築図集』(1931〈昭和6〉年の表紙
水平に連続する窓(連窓)のカーテンウォールが特徴の、装飾を排したシンプルなスタイルの建物で、当時のほかの建物とはかなり異なっているそうだ。
「祖父がニューヨークタイムズの横浜支局の人に、これからは外国人向けのアパートメントが必要と勧められ、建設を決めたと聞いています。当時、ニューヨークで連窓が流行り出してきたころだったようで、それを取り入れたデザインを依頼したのではないかと考えています」と上田さんは話してくれた。
外観写真(『東京・横濱復興建築図集』に掲載のもの)
連続する窓の部分の内側は、直接、部屋になっているのでなく、ガラスの覆い付のベランダのようになっている。当時、宿泊していた外国人らは、そこから眼前に広がる山下公園を眺めていたのかも知れない。
居室は24室。屋上にはテラスがあり噴水もあったようだ。また、ビルの隣にはテニスコートがあったという。
1階平面図(『東京・横濱復興建築図集』に掲載のもの)
1階には、レストランやバー、売店などもあった。ボーイさんがいて、モーニングサービスもしていたようで、小さいホテルながらも細かなサービスをしていたことがうかがえる。
小説家の久米正雄(くめ・まさお)の所蔵品の中にはインペリアルビルの中のレストラン「クレセントグリル」からの招待状が残っており、ここがフレンチレストランだったらしいことも分かっている。
階段(『東京・横濱復興建築図集』に掲載のもの)
居間(『東京・横濱復興建築図集』に掲載のもの)
第2次世界大戦末期、ドイツが敗戦し、以降は本国に帰れなくなったドイツ人の宿泊施設になっていたという。
終戦後は米軍に接収されて、ホテルニューグランドにいるマッカーサーを護衛するために、将校クラスの軍人が住んでいたようだ。
終戦直後のインペリアルビル
戦前の古い建物では、書類が残っていないところも多いが、インペリアルビルは、所有者の上田さんが磯子に住んでいて、戦災による焼失などを免れたため、90パーセント近くの書類が残っているそうだ。
設計図や構造強度計算書も当時のものが残っていた
当時の領収書、火災保険、さまざまな通達など多くのものも
こうしたものを見せていただくと、時代背景や移り変わりが見えてきて、とても興味深かった。戦時中には金属回収のために、インペリアルビルから、扇風機や手すりを出したという記録も残っていた。
居室のナンバープレートや歴代のキーもあった
インペリアルビル内の居室の設備は、米軍が根岸や本牧の住宅に持って行ってしまったため、その後は宿泊施設として使用することはできなくなった。屋上部分が増築されたのも、接収されている当時のようだ。
接収解除後は、主に港湾関係の事務所として貸すようになったという。
現在のインペリアルビル。屋上に建物が増築されているのが分かる
ここであらためて、現在、上田さんが事務所とされているインペリアルビル内の部屋の中を少し紹介する。
壁や窓枠は塗り直しているが基本的には昔のままだそう
右側に見えるのはバスルームのドア
今は机を入れてちょっとした書斎風にして使用
家具や小物は、部屋の雰囲気に合わせて、上田さんがそろえたものもあるそうだが・・・
当時の家具も残っていた。元町の家具屋に依頼して作ったものだそう
続いて、現在のインペリアルビルの共用部分の様子を紹介!
中に入って入口の扉を見ると、こんな雰囲気
入口右手はフロントだった場所
小窓の上には古いタバコなどが置かれていて、懐かしい雰囲気を醸し出していた。
フロントの隣は昔、売店があったところ。今は貸しギャラリーとして使用
こちらのタイルも、当時のままだそう
左手の壁には、懐かしい昭和初期の品々が飾られていた
昔の部屋に残されていたものや、上田さんがコレクションしたものがあるそうだが、ビルの雰囲気にマッチしていた。
階段
上から見ると、こんな感じ
飾りに使われている真鋳は、戦時中の金属回収をまぬがれ、残ったものだそう
インペリアルビルは、多くの映画、ドラマ、CM、雑誌などの撮影に使用されているそうだ。
古いところでは、映画『涙を獅子のたて髪に』(1962〈昭和37〉年)に・・・
ビルの玄関などが写っている
横山剣さんのスチール写真、映画『NANA』(2005〈平成17〉年)では宮崎あおいさんも
ほかにもテレビドラマ『クロコーチ』(2013〈平成25〉年)や最近ではAKB48の渡辺麻友さんのプロモーションビデオ、テレビドラマ『花咲舞が黙ってない2』(2015〈平成27〉年)などの撮影にも使われたそうで、今も問い合わせは多いという。
横浜市認定歴史的建造物を示すプレートがあった
インペリアルビルは、2011(平成23)年2月、横浜市歴史的建造物に認定されている。昭和初期に横浜で活躍した建築家・川崎鉄三が設計による当時最先端のスタイルを試みたモダニズム建築(近代主義建築)であることと、海外との貿易で発展した横浜の歴史、関東大震災後の旧外国人居留地の景観を残す建物としての希少性が認められたものだ。
この認定によって付加価値がつき、建物の維持管理のための助成金も受けられ、横浜の雰囲気をよりよくするように建物の活用するための助言もあるそうだ。
「愛される建物にしたいですね」と上田さん
経年による変化に加え、修理で無造作にペンキが塗られたり、窓枠がアルミサッシに変えられたりと、創業当時と変わってきてしまっていた部分もあったという。なるべく創業当時のイメージに復元したいと考え、そうしたペンキをはがし、木の部分はニスを塗るなどの細かな修復を、もう20年以上、ほとんど上田さんがひとりで続けているそうだ。
「価値を高め、それが分かる人に借りてほしい」と上田さん。「お客さんが建物を気に入って借りてくれ、自分の部屋を格好良く使ってくれているので、共用部分の修復もやり甲斐がある」とも。
現在は、主に設計関係、デザイナー、イラストレーターなどが事務所として使っている。個性的な方が多く、そうした仕事関係や交友関係で著名人も多く訪れるという。現在は満室で、予約待ちの状況だそうだ。
上田さんの貴重なお話のあとは、インペリアルビルで出店しているお店の方にお話を伺うことに。