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横須賀で関東大震災の際に起きたトンネル事故とは?

ココがキニナル!

京急安針塚を降り、JR横須賀線の田ノ浦踏切の傍らにある「轢死者供養の塔」という古びた墓石の供養塔。ときどき花が時折活けられてはいますが、由来が知りたい(三浦虎次郎さん)

はまれぽ調査結果!

田浦駅を中心に東京寄りの踏切に関東大震災の際、トンネルの崩落事故で無くなった方を祀る供養塔があったが、安針塚の塔の詳細は不明

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ライター:やまだ ひさえ

横須賀市には日本の発展に大きく関わってきた場所が多数ある。今回、キニナルに登場したJR横須賀線の「田の浦踏切」のある横須賀市長浦町(ながうらちょう)もその1つだ。
 


かつては軍港として、今も海上自衛隊の駐屯地がある(提供:横須賀市)
 


横浜DeNAベイスターズの総合練習場もある長浦町
 

投稿にあった「轢死(=れきし、電車などにひかれて亡くなること)者供養の塔」の最寄り駅である「按針塚(あんじんづか)」駅の「按針」とは、江戸時代初期、徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士、ウィリアム・アダムス。日本名、三浦按針(みうら・あんじん)のこと。

長浦町の隣接する横須賀市逸見(へみ)に按針の所領があったことから、彼の遺言で、没後、この地に葬られている。
 


塚山(つかやま)公園にある按針夫妻の供養塔(提供:横須賀市)
 

もう1つ、田の浦踏切のある横須賀線自体も日本の発展に大きく関わってきた路線だ。

横須賀線が大船~横須賀間で開業したのは、1889(明治22)年6月16日のこと。

1871(明治4)年に第1号ドックが完成した「横須賀造船所」からの物資の運搬と、軍都としての重要性を増していた横須賀への人員の移送を迅速に行うための、当時の陸軍の要請によるものだった。
 


明治時代初期の横須賀造船所(同)
 

横須賀線と並行して走っているのが、国道16号線、横須賀街道。この2つに挟まれるような場所に「轢死(れきし)者供養の塔」はある。
 


今もご近所の方が供養している
 


鉄路と陸路が近接している
 

「轢死」ということで、何らかの事故で亡くなった方を祀っていると推察できる。古くから地元に住む方にも聞いてみたが、「かなり昔からあるが、いつ、誰が、何の目的で作ったのかは分からない」とのことだった。

地元の方が知らなくても文献に残っているかもしれないと思い、横須賀市立図書館の郷土資料室で古い資料をあたったが出てはこなかった。さらに、同市の市史編さん室、田の浦踏切のある長浦一帯を管轄している市民部田浦行政センターでも調べてもらったが、資料がなく詳しいことはわからないという回答だった。

田の浦踏切の詳細は分からなかったが、供養塔を調べているうちに、同じJR横須賀線田浦駅を挟んで東京寄りにある「静円寺(じょうえんじ)踏切」にも同様に、轢死者を長年にわたって祀っている供養塔があることが判明。田の浦踏切と何か関連があるのだろうか。




関東大震災で亡くなった方を慰霊する供養塔



静円寺踏切があるのは、横須賀市田浦4丁目。
 


田の浦踏切との位置関係
 

JR横須賀線と京浜急行が立体交差する場所の近く
 

静円寺踏切にある供養塔
 

供養塔の碑名は「轢死者溺死者追弔塔(れきししゃ・できししゃ・ついちょうとう)」。1924(大正13)年9月1日に建立されたものだ。
 


今では刻まれた文字を読むこともできない
 

建立時に刻まれていた碑文(フリー画像)
 

建立したのは、平時は普通の市民生活を送っているが、有事の際には予備役の軍人などとして召集される軍人たちの組織「帝国在郷軍人会」の田浦町分会田浦班。

なぜ、軍人たちが追弔碑を、お寺の近くに作ったのだろう。その鍵を握っているのが、踏切の名前にもなっている静円寺だ。