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横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

横浜に江戸街風情な街並はあるの?

ココがキニナル!

横浜というと昭和レトロ、大正ロマン、古い港町風情では有名ですが、江戸街風情はあまり聞きません。横浜の京都や萩のような江戸街風情な街並みポイントを知りたいです。(浜の住人さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1945年の横浜大空襲のせいで、古い建物は壊滅状態。点在する江戸の名残は、住む人が丁寧に守り続ける姿が魅力的だった。

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ライター:吉岡 まちこ

現状から先に言ってしまうと、哀しいけれど横浜には江戸時代の建物はほとんど残っていない。
なぜかというと、1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲で焦土となったから。
郷土史家のかた数名にお聞きしても、2軒が連なる所はまずあり得ないことがわかった。

それでもなんとか江戸を感じられる場所はないか、探してみることにした。


宿場町を歩いてみた。神奈川宿は料亭街。



「東海道 宿場 横浜」とかの単語で検索すると、東海道散策ファンのブログが山のように出てくる。
車がビュンビュン行き交う今の景色に、旧東海道の面影を重ねて歩くのは、すごく想像力がいることだ。
跡地の石碑や案内板をたどるのは、今回は潔くマニアのサイトにお任せ。
今回「はまれぽ」ではもっとミーハーに徹し、現実的な楽しみを追ってみた。

京急神奈川駅のすぐ近く、青木橋は神奈川宿があったあたり。
江戸を発ち、ラクしたい旅人は1泊目がここ。頑張る旅人は戸塚宿まで歩いたらしい。

懐古的なことはしないと言いながら、浮世絵を紹介してしまう。
 


「東海道五十三次之内神奈川 台之景」1833年(天保4年)頃 歌川(安藤)広重 


浮世絵に描かれている当時の東海道は、青木橋にそびえるあの大寺院・本覚寺より1本横浜寄りの坂道。
なかなか衝撃的だ。道の左側は海だったのだ。横浜駅はどっぷり海の中。
次の保土ヶ谷宿があった相鉄・天王町駅あたりまで、波打ち際だったと言われている。

この浮世絵で、坂の中腹にある「さくらや」がここだ。
 


古き良き香りを残す、文久3年(1863年)創業の割烹料亭「田中家」


「さくらや」が江戸時代末に他の名の料亭を経て「田中家」になったと、代々語り継がれているという。
甘酒やお団子をふるまう腰掛茶屋が並んでいた台町の一帯は、明治・大正・昭和の初めまでは料亭街としてにぎわったが、今はマンションが立ち並ぶ静かな通り。
江戸時代から続く店は、今では「田中家」たった一軒になってしまった。
 


近くには「田中家」の仲居だった人が始めた料亭「滝川」も。ここはマンションの1階


割烹旅館だった「田中家」では、坂本龍馬の未亡人となったおりょうさんも勝海舟の紹介で働いていた。
おりょうさんは、月琴も弾きキップが良く客あしらいも上手だったという記録がある。
当時、窓からは一面の海の眺め。伊藤博文や夏目漱石も投宿し、大正時代には200畳の部屋、600人の従業員を抱えるほど繁盛していたという。
 


「田中家」では歴史を語る貴重な古写真をスライド上映もしてくれる


近くにアメリカ領事館だった本覚寺があったのが幸いし、爆撃をまぬがれ、半分残った建物で平成5年までは1000人入った割烹料理旅館だったそうだが、意外にも知られていない。
「横浜市は民間の古いものを守ってくれないんですよ。海もどんどん埋め立てちゃう。昭和40年には20軒残っていた料亭も、それではやっていかれませんよ。明治大正期にものすごい税金で貢献してきたのにね」と、女将。
 

料理は昼6,300円~、夜は10,500円~(別途席料+サービス料)
決して手が届かないものではない


父・兄を失った相続税で建物の85%を失ってでも、料亭を継ごうと決意したのが平成5年。女将45歳の時だった。
それから着付けと三味線を始め、祖先からの古い建物と150年近い歴史を必死に守ってきた。
 


「私が目の黒いうちは木造でがんばりますよ」 左の写真はおりょうさん


江戸の息吹と情緒を確実に残している料亭。お土産を買いにだけ立ち寄ってもいいそうだ。
 


芋焼酎「龍馬とお龍」5,250円。清酒「日本を今一度せんたくいたし申候」4,200円
 

イベリコ豚ベジョータの西京漬け 5枚入って3,150円。豚は柔らかく、味噌の甘辛さも絶妙


■ 田中家
横浜市神奈川区台町11-1  電話045‐311‐2621