横浜市神奈川区の青木橋近くにある本覚寺。その巨大な石積みの震災復興史を紐解く
ココがキニナル!
青木橋近くの本覺寺を支える道路擁壁は昭和3年に復興局によって築かれたものだとか。ただの土留めの石積みではなく、関東大震災復興の土木遺産と言うべきもの。復興の歴史を取材してみませんか?(ねこぼくさん)
はまれぽ調査結果!
全潰レベルの震災被害から復興を遂げた古寺・本覺寺。その一環として修復された道路擁壁は、足下の鉄道擁壁との形状の調和も配慮された。また、横浜にはほかにも貴重な復興局施工の道路擁壁が残る。
ライター:結城靖博
鎌倉時代の1226(嘉禄2)年創建と伝えられる横浜市内有数の古刹(こさつ、古いお寺)、神奈川区高島台の曹洞宗青木山本覺寺(あおきざんほんがくじ)。もとは臨済宗だったが、1510(永生7)年に起きた上杉・上田氏の権現山合戦(ごんげんやまかっせん)の舞台となり荒廃し、1532(享禄5)年に曹洞宗の寺として再興された。
場所は京急線神奈川駅に近い第二京浜沿い
まずはその由緒正しいお寺の復興道路擁壁(ようへき)なるものを、この目で見てみよう。
本覺寺の道路擁壁は青木橋付近のランドマーク
京急線神奈川駅を降りてすぐそばの跨線橋(こせんきょう、鉄道の上にかかる橋)・青木橋を渡ると、線路に沿って鶴見方面へと延びる第二京浜の道路に突き当たる。
青木橋の橋上から眺めると、第二京浜沿いの道路擁壁(道路に沿った土留めの壁)はひと際目立ち、あたかも周辺のランドマークのようだ。
青木橋から道路擁壁を望む
擁壁の左側の白い建物、そして擁壁上部の外壁にも「本覺寺」の文字が見える。ここがキニナル投稿者さんの指摘する場所だ。
擁壁の下のびっしりと車が連なる道路が第二京浜。その手前の線路にはJRの横浜線、東海道線、横須賀線そして京急線など複数の電車がせわしなく行き交う。
まあ、終日たいへんにぎやかな、言い換えれば騒々しい場所だ。だが、騒々しくて当たり前か。なにしろ江戸時代までは、交通の要衝・東海道の神奈川宿があったところ。この界隈こそ、神奈川の中心地だったのだから。
神奈川駅の横にある神奈川宿の歴史を伝える解説板
そのわりには現在の神奈川駅は小さい
そういえば駅に近い宮前(みやまえ)商店街も・・・
中を覗くと店がほとんどなく、ちょっと驚く
立派な看板アーチはあるものの、商店街とは名ばかり。そんな場所が今、横浜市内に増えている。かつてここは、下の浮世絵のように栄えた宿場町だったのに。
香蝶楼国貞作『末広五十三次 神奈川』1865年(横浜市中央図書館所蔵)
今ではこの付近はオフィス街であると同時に、国道が第一京浜(国道15号)と第二京浜(国道1号)に分岐する複雑な幹線道路エリアとして存在している。
青木通交差点の歩道橋から青木橋方面を望む
本覺寺境内を取材
だんだん今回のテーマである本覺寺の道路擁壁から遠ざかっている自分に気づき、青木橋を渡って本覺寺のほうへ戻る。
第二京浜の道路の向かいから見た本覺寺のいわば左半分
そしてこちらがいわば右半分の眺め
本覺寺の敷地は第二京浜側から仰ぎ見ると、道沿いにやたらと横に長い印象を持つ。だがそれは、明治初期の鉄道建設、それに続く道路拡張などで境内の土地が収用され、現在のように東側に大きな切通しができたからだ。幕末までは、線路の向こうの権現山と尾根続きだった。だからこそ、権現山の合戦で本覺寺にも戦禍が及んだわけだが。
下の浮世絵を見ると、かつての様子がよくわかる。
初代広重作『神奈川台石崎楼上十五景一望之図』(横浜市中央図書館所蔵)
小さくて見づらいが、画面の下方手前に本覺寺と権現山が描かれている。本覺寺の左手に大きく描かれた権現山は、幕末の神奈川台場埋め立て築造のため山の土が大きく削り取られる。絵はそれ以前の景観を表していることになる。
それはともかく、現在の本覺寺の様子を少し見てみよう。
第二京浜沿いの長いスロープを上ってゆくと
本覺寺門前の石段に突き当たる
階段上のスダジイの巨木が印象的だ。
石段下の右脇には寺の歴史を伝える解説板がある
そこに添えられた絵図から、かつての境内の宏大(こうだい)さが見てとれる。
スダジイの傍らには「史跡 アメリカ領事館跡」の石碑が
そう。解説板にも書かれている通り、眺望に恵まれたこの寺には開港後最初のアメリカ領事館が置かれた。写真左手に見える山門は、そのときアメリカ人らの手によって、ペンキで真っ白く塗られてしまった。
ペンキの痕跡は、まるで白いかさぶたのように、いまだに残っている
だがこの山門は震災・戦災の難をまぬがれ、江戸時代からの姿をとどめる