中区花咲町、西区花咲町。なぜ分かれているの?
ココがキニナル!
中区花咲町、西区花咲町。なんで中区と西区に分けたんだろう?(Zoo3さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
分けられたのは、空襲も迫った戦争の真っ只中。警察の管轄域に合わせるように区境が決められたので分かれてしまった。
ライター:吉岡 まちこ
花咲町は細長~いから2つに分かれた、わけではない。
同じ町がふたつの区をまたいでいる!? そんなことあるのかとびっくり。
まず花咲町はどこなのか? 場所と“問題の”区界(くざかい)を確認してみよう。
花咲町は桜木町駅のすぐ近くだ。それにしても細長~い!
地図下方1~3丁目が中区。上の4~7丁目が西区だ。
ふむふむ、長いから2つに分かれたんじゃないか? 今回はすぐ答えが出てしまいそうだ。
・・・そう思ったのが大きな誤算。
なぜ花咲町は二つに分かれたのか?
横浜市市民局窓口サービス課に電話をしてみた。そして住居表示係に回された。
すると、「今では区界は町ごとが基本ですが、2つの区に分かれるのは花咲町だけではないですよ」という意外な答え。
市のHPから住居表示の町名一覧を五十音順に見ると、区をまたいでいる町がわかる。
「横浜市の町名一覧」。一番右が廃止年月日。その横は町を設置した日だ
五十音順に調べると、赤門町、桜木町も同じように中区と西区に分かれていることがわかった。
また西区と中区だ。
そもそも西区・中区は、いつできたのだろう?
調べてみると、中区は区制が布かれた1927(昭和2)年、鶴見区、神奈川区、保土ケ谷区、磯子区の4区と一緒に誕生した。
いっぽう西区はというと、誕生したのは1944(昭和19)年4月だった。
1944(昭和19)年? 戦争の真っ最中も真っ最中じゃないか!なぜそんな戦火の激しい時に?
細長いから分けたんダロという安直なことではとても済まない難航の予感がひしひしとする・・・。
戦火の中、中区から2つの区を独立させた
戦時中に、区を分けなくてはいけないほどの何があったのか。
その時の状況は、筆者などには見当がつかない。
そこで、まず西区の郷土史家のかたに当時の話を聞かせていただいた。
「戦中は、郵便物も隣組が配達していましたが、滞って困ったようです。何しろ大きな区だったので配給の人手や行政処理も大変だったのか、まず南区を独立させて、それから4ヶ月後に区役所もないのに西区を独立させたんです」。
言葉は悪いが、中区は、南区に続いて西区を切り離したのだ。
紅葉坂が区界になっていて、向かって右手が西区
でも、なぜ花咲町が二つに分かれたかはわからないとのことだった。
そこで、横浜の近代史に詳しい「横浜市都市発展記念館」にも電話をした。
「初めて本土に空襲があったのは1942(昭和17)年4月のこと。太平洋の南の島々が次々占領されてきたので、人口も過密で横浜の中枢機関が集まっていた中区にもこれから空襲が激しくなることは予測されていたはずです」。
現に1944(昭和19)年、西区が分かれてわずか数ヶ月後、空襲が本格化した。
昭和20年5月の大空襲では、紅葉橋のあたりも一面焼け野原になった
どうやら南区と西区を独立させたのは、空襲に備えてのことだったようだ。
こうして人口が減った中区は身軽になり、中枢だった行政機能もスムーズになったことは確かだ。