中区花咲町、西区花咲町。なぜ分かれているの?
ココがキニナル!
中区花咲町、西区花咲町。なんで中区と西区に分けたんだろう?(Zoo3さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
分けられたのは、空襲も迫った戦争の真っ只中。警察の管轄域に合わせるように区境が決められたので分かれてしまった。
ライター:吉岡 まちこ
区を分ける時の、キーワードは「ケイボウ」
では、どういう線引きで区を分けたのか。なぜ花咲町は二つに分かれてしまったのか。
西区と中区の境界(赤い点線)は、すごく入り組んでいる(西区区民生活マップより)
横浜市都市発展記念館の方にも、地元の自治会の方々にもそれはわからなかった。
そこへ中区役所の地域振興課の方からある情報を入手!
「戦時体制だから、“ケイボウ”で分けたんですよ」。 警棒? いやいや、警防と書くらしい。
“警防”という名称は、中区花咲町町内会長との会話にも出てきてはいた。
「空襲になると、警防団が活躍した」のだそうだ。
警防団とは何なのだろう!? 聞き覚えがあっても地元のご長老がたも当時はまだ少年だ。
やはり何か資料をひっくり返さないと今回は難しいのかもと、覚悟を決めた。
向かったのは野毛の横浜市立中央図書館。この地下に議事録や区史など貴重な資料が眠る
地下の「横浜市史資料室」の書架
「横浜市史資料室」の静かな閲覧室で、調査研究員の羽田さんから、それならと『警察史』なる本を紹介された。目次にはすぐ「警防団」の名があった!
――昭和14年、「警防団令」が制定された、とある。
警防団は警察署単位に置かれた組織で、警察署長や消防署長の指揮下に町内会役員を組み込み、防空壕を使った防空訓練を繰り返し行なっていた。実際の空襲を知らせるのも警防団だったようだ。
空襲警報が鳴ったら市民を守るのは警防団、そしてそのリーダーは警察だったのだ。
では「警防で分けた」とは、どういう意味だったのだろうか。
警察の管轄エリアが、境界だった!
区を分けた時の議事録に手がかりがあるのでは、と羽田さんが付箋を付けてくださったのが、これ。
横浜市会の議案はすべて議事録に残っている。正式名は「横浜市会議事速記記録」
1943(昭和18)年7月の「市第七六号議案 神奈川区、中区、保土ヶ谷区の区域を変更し新に一区を増区するものとす」というタイトルの箇所だ。
ひらがなはカタカナだし漢字は旧字だし。でも記録をひたすら読む。
そこには、区を分けたい理由が長々と、赤裸々に語られていた。
“スルヤウ”など、一見ヒクが案外読みやすい議事録
かなり現代語に要約すると「中区は人口が40万人もいる」「現在の時局下では、防空関係や物資の配給の関係から、分区すべきと叫ばれている」「警察署と区の区域を一致させてもらいたいというのが、中央政府と県当局の希望で、市民からも強い希望があった」「そこで警察の区域を変更してもらえたらと交渉してみたが、この時局では延期してもらいたいと強く要望された」「これにより都心地で、警察区域と区の区域が一致することになった」ということだ。
つまり、警察の管轄域に合わせて、区のエリアを決めたというのだ。
警防団をうまく機能させるため、いかに警察を動きやすくするかが分区の主眼だったのだ。
西区の誕生。そして花咲町は2つに分かれた。
南区新設の際に「中区は将来、さらに適当に分区する考えだ」と西区の分区が予告されていた。
適当にというのはテキトーではなくもちろん、適切にという意味だ。
その予告通り、1944(昭和19)年4月1日、戸部署管内の11万人をもって西区を新設。
2月の議事録に「中區ノ内左ノ區域ヲ以テ一區ヲ新設ス」とし、「花咲町自(より)四丁目至七丁目」が西区に含まれ、1~3丁目は中区に残ったのだ。
これで、花咲町が2つの警察署の管轄にまたがっていたという文書でもあれば裏打ちできたのだが、県警に文書は残っていなかった。
『横浜市報目録』。右が1943(昭和18)年、左の1944(昭和19)年はなんと手書きだ
さらに、戦中の混乱がわかる不思議なことも起こっている。西区が新設されたニュースが、なんと「横浜市報」に載っていない。1943(昭和18)年、南区新設の時は載っている。本来これはあり得ないことだそうだ。
上の写真を見てほしい。市報の目次だけを集めた『横浜市報目録』だが、南区が新設された1943(昭和18)年までは活版印刷で、西区が新設された1944(昭和19)年から約5年間は手書きになっていた。
追い詰められた日本の物資不足と空襲による非常事態を物語っているかのようだ。
中区から南区・西区が分かれたのは、まさにそんな時代だったのだ。
分けた結果、3つの区の人口はそれぞれ11万人~15万人とようやく足並みを揃えることができた。
取材を終えて
花咲町が西区と中区に分けられた背景には、空襲に備え人命を守る“警防団”の存在があった。
つまり警察の管轄範囲が、区の境界を決めたのだった。
でも、区界の地図にあった桜木町駅の線路や、旧三菱造船所の中の複雑な境界線が、はたして警察と関係があるのかは追究できず気になったままだ。ご存知の方はお教えください。
余談だが、中区役所の方から聞いたうんちく話。「中区の西側にあるのに南区。北側にあるのに西区っておかしいでしょう? 敵に位置を悟られないようわざとそうしたらしい」とのことだった!
― 終わり ―
ushinさん
2012年10月14日 18時26分
「中区の西側にあるのに南区。北側にあるのに西区」もちろん誰でも正しい地図の見方は知っているが、それと同時に頭の中の地図では横一本の線にそって横浜港・関内市街地を置き、その左(つまり西)に西区、下(南)に南区と座標変換している面もあるので違和感がない。東海道本線も大船までは北東から南西に意外と斜めに走っているが、イメージの地図では東西に走っていて、横浜線・南武線はそこから真北に向かって伸びているような感覚を持つ。だから保土ヶ谷区に住んでいた子供時代の私は、電車で町田方面に行くときには一旦東の横浜に出て「北に向かう」のに、自動車の場合は西(北西)に行けばやはり町田に着くことに不思議な感じがしていた。今でもGoogleMapとかで遊んでいる時、横浜の真北に大宮(さいたま市)があるのは面白く思う
kazさん
2012年02月18日 01時05分
2区に分かれているのは知っていましたが、なぜかは知らなかったので面白かったです。興味持って周囲の町についても調べてみたらすぐ隣の「桜木町」についてはWikipediaに「1944年4月1日:太平洋戦争下の防空関係により、戸部警察署管内に置かれていた字4~7丁目が西区へ分区編入される。」なんてサラッと書いてあったりしますね。うーん、wikipedia恐るべし。そして中区内田町。「キニナル」にも投稿しましたがなんでこんな極小面積で残ってるんだ。しかもmapion地図でよく見ればJR線路上に飛び地まである!? ますますキニナル…
ふくだでございます。さん
2012年02月17日 09時13分
花咲町が二つの区に別れていたとは知らなかったので、んんん?と興味を引かれ忙しいのにうっかり読んでしまいました。もちろん面白かったです。警察の管轄だとか、警防団の活動だとか。戦時下での行政や住民の懸命さが偲ばれるレポートでした。良いお話しをありがとうございました。