市民も誰も知らない? 横須賀を作り上げた英雄・デッカー司令官って何者? 前編
ココがキニナル!
横須賀市民から「英雄」とされるデッカー。米軍横須賀基地司令官として軍務そっちのけで市民救済に注力。学校や病院建設のために占領地を返還。目標は「日本一の都市・横須賀」だった(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
ベントン・W・デッカーは4代目の司令官として米海軍横須賀基地に着任。経済、医療、教育、婦人の地位向上など横須賀の再建と民主化に尽力
ライター:やまだ ひさえ
横須賀を民主主義へと導いたデッカー司令官
「私は第二次世界大戦前の中国、太平洋での軍務を通して、西太平洋に完璧な基地の必要性を痛感していた(原文ママ)」
『黒船の再来』でデッカー司令官は、こう記している。
日本の敗戦を受け、ワシントンではアメリカが本州、中国が九州、ソビエト連邦が北海道をという米・中・ソによる分割統治案が議題にのぼっていた。ソ連が北海道を欲する理由は明確だ。
ソ連は北半球で一番寒い地域にある
「真冬でも凍らない港が欲しかったから」とソ連が北海道にこだわった理由を大橋さんが話してくれた。
北海道なら港が凍る確率は少ない(フリー画像)
「北海道に上陸したら、私の指揮下に入ってもらう。そうすれば一区画を与えよう(原文ママ)」
外国人司令官の指揮下に入るなどとんでもないと、ソ連は進駐を断念。ソ連の占領を水際で阻止したのが、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥だ。
私の指揮に従え(横須賀学の会HPより)
もしソ連が北海道に進駐していたら、今も北海道は現在のロシアの統治下にあったかもしれない。
それはアメリカにとっても脅威だ。自国の防衛ラインを撤退させなければならなくなるし、また当時、日本国内で勢力を強めようとしていた共産主義の拡大につながる恐れがあったからだ。
日本に共産主義が拡大していた可能性も(写真は「赤の広場」フリー画像)
米・ソ、2大大国の緊張感が増すなかで、デッカー司令官がアジアにおける防衛ラインの重要性を視野に入れていたのも納得できる。
アメリカが望んでいるのは日本との同盟関係だ
「横須賀基地は理想的だった。ここは国中から労働力、電力、水が無限に供給され、大きく容易に外敵から身を守ることのできる湾に位置している」
「(中略)そこには、米国最大の空母も容易に入渠(にゅうきょ・船が修理などのためにドックに入ること※編集部注)できる世界最大の乾(かん)ドックもあった(原文ママ)」
横須賀基地は理想的な場所だった(『占領下の横須賀』より)
しかし、基地内は機械類や車両、建物など旧日本軍が残した膨大な戦争物資、引き上げが必要な沈没船、廃棄しなければならない残飯も大量に残るなど、ガラクタの山だった。
また、米軍からは乾ドックの爆発はいつ決行するのか催促されていた。
しかし、第1回週例会議の席上で、デッカー司令官は「この基地に今後50年間駐留するつもりだ。さあ、清掃しよう」と語っている。着任早々、横須賀クリーンアップ作戦が開始された。
基地内の清掃に積極的に協力したのは日本の女性たちだった(同)
一方、連合軍の兵士も堕落していた。強姦(ごうかん)、市民への横暴な振る舞い、銀行強盗を起こした兵士もいた。デッカー司令官は、これらの陳情を全て取り上げ、軍事裁判にかける手続きを行った。
また、日本人女性との同棲も多発していた。本国から遠く離れた異国の地にあって兵士たちの多くが家族を求めていることを感じたデッカー司令官は、基地内に家族用の住宅造りを進めた。
基地内に新設した家族用住宅(『新横須賀市史・別版軍事』より)
基地内の整備を進めるとともに、「新生横須賀」再建のために活動も始まった。
「太平洋の平和は二つにかかっていた。日本が民主主義国家であることと米国と同盟関係になることだった(原文ママ)」
マッカーサー元帥が掲げた博愛精神によるキリスト教的占領こそが、日本の民主化には不可欠であるとデッカー司令官は考えていた。
横須賀市民は空腹と失業に苦しんでいた(『ふるさと横須賀』より)
市民生活に関する問題を解決するためにデッカー司令官が取り組んだのが女性解放だった。日本の女性のムラのない気質を高く買っていたデッカー司令官は、米軍の支援を代理してくれる女性組織「新生横須賀婦人会」を組織した。
これらの政策に協力し、婦人会の顧問を務めたのが、1946(昭和21)年6月に来日したエドウィーナ・N・デッカー。デッカー夫人だ。
デッカー夫人
基地内で横行していた食糧の横流しや兵士と市民の癒着を監視し、古くなった食材や残飯などの規格外食糧を市民に配る役目を担ったのが、新生横須賀婦人会だった。
新生横須賀婦人会の会員は最終的には5万人規模に(『黒船の再来』より)
また、渋る市警本部長を説得し、婦人警察官も誕生させた。男性警察官と同じ制服にすべきと提案したのもデッカー司令官だ。
日本では画期的なことだった(同)
女性の開放と地位向上は、デッカー司令官が強く推進する日本の民主化の柱の一つだった。
同時にデッカー司令官は横須賀再建のためのプラン、「横須賀の工業再生化」を連合国軍最高司令部、GHQに提出していた。既に廃止されていた追浜飛行場の跡地を、後に平和産業に寄与する企業や工場に払い下げることで失業率軽減に貢献した。
追浜飛行場跡地は自動車メーカーに払い下げられた
ほかにも旧日本軍の軍需工場がトヨペットに払い下げ、また、元海軍工廠にあった機械類を稼働させ木綿、毛糸、絹など80近い工場を作りあげた。
1946年7月19日には、高さ2メートル40㎝もあった旧日本海軍の基地を取り囲んでいた塀の取り壊しが行われた。
ガレキの上を歩くデッカー夫人 (同)
横須賀の好転を実感した横須賀市議会は、1948(昭和23)年3月26日付でデッカー司令官の留任願いをマッカーサー元帥宛に送り、受理された。
司令官の任期は通常2年だが、異例とも思える嘆願書によってデッカー司令官の任期は倍の4年に延長された。
そして、翌1949(昭和24)年11月27日には、横須賀市役所前の公園に、日本人の手に初めて創られたアメリカの軍人胸像が設置。除幕式が行われた。
胸像の前のデッカー司令官夫妻
著書『黒船の再来』の中でデッカー司令官は、こう語っている。
「横須賀での任務が私の海軍奉職歴のなかで最も充実した時期(原文ママ)」と。
横須賀市民を導き、支援の手を差し伸べたデッカー司令官は、1950(昭和25)年6月、4年間の任期を終え帰国の途についた。その後に問題が起こったと「横須賀学の会」の大橋さんが教えてくれた。
本には書かれていない、と話してくれた
米軍の政策の一環として、デッカー司令官は在任中、民主化の天敵ともいえる共産主義者の排除を徹底して行っていた。
基地で働く日本人全員について、共産主義者と判明したものは解雇した。
基地の安全確保ための措置だったという
デッカー司令官の帰国後、不満に思っていた共産主義者が復職、台頭したことで基地で働く日本人に対し、司令官の功績をなかったことにするように仕向けたのだ。
その結果、時を経るにつれ一般市民の記憶からデッカー司令官自体、横須賀再建のために行った事実が消えていった。
取材を終えて
今回の取材を通して、あれも、これも、それもデッカー司令官の功績だったんだ。
と、地元民ならではの驚きと発見があった。
明日の後編では、現代まで受け継がれ、守られているデッカー司令官の情熱を、さらに追跡するとともに、特別な許可をもらった米海軍横須賀基地司令部の内部なども紹介する。
―後編に続くー
横須賀学の会
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