空襲体験者が語る、湘南地域を襲った空襲被害とは?
ココがキニナル!
朝ドラ「梅ちゃん先生」で空襲のことをやっていましたが、湘南エリアの空襲について取材してください。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
今回は湘南の空襲被害として、藤沢市と特別に平塚市をピックアップ。実際に空襲を目の当たりにした方の、貴重な証言をお届けする。
ライター:松崎 辰彦
空襲とは何か
「梅ちゃん先生」とは2012(平成24)年上半期にNHKで放送されていた朝の連続テレビ小説の作品。舞台は現在の東京都大田区蒲田だったが、蒲田も戦争中に空襲被害に遭っている。
「空襲」──太平洋戦争中、日本人にとって、空襲は何よりも恐ろしく、警戒すべきものだったであろう。
1942(昭和17)年4月18日の「ドーリットル空襲」を皮切りに全国200の地域が爆撃され、死者33万人、負傷者43万人、被災者は970万人に及んだと言われている。燃え盛る炎の中、家族が焼け死に、家が消滅し、街が崩壊するのを当時の日本人は目の当たりにした。
B29による爆弾投下(画像提供:川崎市平和館 転載不可)
空から火炎が自分やわが家、わが街に向かって降ってくる。それも無数に・・・平和な時代に生まれ育った現代のわれわれにとって、それは完全に映画・ドラマの世界である。
1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲、同年5月29日の横浜大空襲といった節目になると繰り返し語られる空襲だが、体験者は年とともに少なくなり、少しずつ“伝説”の領域に近づいている。
しかし、60年以上前にあったこの惨劇の歴史を忘れることのないようにと、現在でも多くの体験者による語り継ぐ会が開催されている。終戦記念日を明日に控えた本日、湘南地域を見舞った空襲について、見ていきたい。
藤沢も空襲を受けていた
「藤沢市史」によると「藤沢市は結局本格的な爆撃の対象にはならなかったが、空襲の脅威にはたえずつきまとわれており、他地域に対する爆撃の余波や艦載機やP51の銃撃よって若干の被害を受けた」とされている。5月24日から25日にかけては焼夷弾360発が投下され、36戸が全焼し、99人の罹災者を出したという記録があり、また5月29日には横浜大空襲の余波を受け、1名の死者が出たともいわれている。
そうした中で、やはり特筆すべきはかつて辻堂にあった関東特殊製鋼への爆撃であろう。
関東特殊製鋼は神奈川県藤沢市辻堂に2010(平成22)年まで存在した特殊鋼メーカーである。1932(昭和7)年に創業した同社は、軍需工場に指定されていた。
1945(昭和20)年7月30日午前8時30分ごろから約30分間にわたり艦載機約20機によって約100キロほどの小型爆弾二十数発と相当数の焼夷弾が同社に投下され、さらに大型機関銃による機銃掃射もなされた。
関東特殊製鋼の跡地に建設された湘南テラスモール
爆弾は主として工場の中央部に命中し、防空壕に逃げ遅れた従業員4名が即死、1名が重傷を負い、翌日に死亡した。負傷者は数名であった。生産設備の被害は工場中央部建物の屋根・側壁・鉄骨・木骨、熱錬工場の焼鈍炉2基・焼入工場の油槽2基、旋盤3台の破損などであった。
8月13日には再び艦載機数機による空襲を受けたが、事前に警報がでていたこともあり、防空壕に退避していた従業員に死傷者はなく、工場設備の損害も前回より軽微だった。
7月30日の空襲の様子を、関東特殊製鋼に勤労動員に出ていた当時13歳の岩見高明氏は「市民が語る十五年戦争」(藤沢市教育委員会 博物館建設準備担当 編集・発行)の中で語っている。
「空襲警報が出て、鉄兜をかぶって本部に居たんです。本部は爆風をよけるような感じの鉄筋コンクリートでした。でも、ものすごかったですよ。時間がわからないんですが、本部についてしばらくしたら、ドカン、ドカンとやられてもうびっくりして。爆弾の音というのは、自分が狙われているような感じがします。子供ですから、隅っこに固まっちゃったら、兵隊さんが上から毛布をどんどんかけてくれて、あのときは助かったなあ。爆弾の他にも機銃掃射やロケット弾の攻撃もあったようです。
「市民が語る十五年戦争」
(編集・発行/藤沢市教育委員会博物館建設準備担当)
空襲が終わって地上に出たら、鉄骨だけになって何も残っていなかった。ガラスが割れてね、きれいになっていた。担架に担がれて運ばれていく人も、二人か三人いました。台湾の人たちだったのではないでしょうか。
帰りに辻堂の海岸へまわって行きましたら、駅の周りの住宅が被災していましてね。真っ黒な人間が転がっていました。近所の人も大騒ぎするわけじゃない。落ち着いたら棺桶つくってあれしなきゃ、なんて話をしていました」(「市民が語る十五年戦争」より)
藤沢市も、小規模ではあるが、空襲の被害を受けていたのである。