創業100年を超える吉田町の鶏肉専門店、「梅や」の歩んだ歴史とは?
ココがキニナル!
横浜の鶏肉専門店「梅や」は珍しいお肉が手に入り、売ってるお惣菜も美味しい。お店で鶏を解体している様子を取材してほしい。今年で創業101年のようですので、お店の歴史も(タロー先生さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
創業から103年を有する吉田町の梅やは日本に鶏肉食文化を根付かせるために尽力をしたお店だった。今も鶏の解体を店で行い、新鮮な鶏肉を届けている。
ライター:細野 誠治
戦後の伊勢佐木町と、鶏肉の歩み
横浜の名店。
老舗や行列店、さまざまあれど、吉田町の「梅や」といえばまさに。ハマっ子の胃袋を掴んで離さない、名店のひとつに数えられるお店。
ハマの名店・鶏肉の梅や
筆者の脳裏にも、子どものころに見た「梅や」の鮮やかな緑色の包装紙が浮かびます(こんな人、多いのでは?)。そんな、気づけばハマっ子の側にあった梅や。
一体、どんな歴史があるのか? 探ってきました!
最寄りはJR関内駅。イセザキ・モール入口を吉田町方面へ折れればOK。
吉田町、大岡川橋そば。本当にすぐ近く!
こちらのビルにお馴染みの緑の看板
ショーケースにはブランド鶏が・・・
さまざまな部位に惣菜も充実
被り物は満を持してブロイラー! 細野誠治です
投稿にもある通り歴史のある店。創業は1913(大正2)年とある。今から103年前だ。
まずは歴史について教えてもらおう。
梅やの4代目、専務取締役の山下大輔(やました・だいすけ)さん(35歳)に案内され事務所に。
世間話を挟んで、いざインタビューを・・・。これが凄かった。
お話を聞かせていただいた4代目は独身。現在恋人募集中(女子は急げ!)
梅やは、もともとは東京・浅草の卵屋さんから始まったお店だそうで、こちらの創業が今から103年前とのこと。当時はあくまで卵屋さんで、鶏肉の販売は行ってはおらず。
それどころか大正時代には、まだ鶏肉を食べる文化は日本にはなかったとか。(えっ!? そうなの?)
今回の取材、横浜にとって貴重な掘り起こしができました
「鶏肉を食べる文化は昔、中国から入ってきたんですね。当時、一番鶏肉を食していたのが福岡県。焼き鳥や水炊きの文化が徐々に関西方面に流れていったんです。値段も高価で、天皇陛下への献上品でしたし」
そんな鶏肉。日本人が触れるようになったのは戦時中のこと。沖縄に駐留していたアメリカ軍が現地で食料を調達するため飼育を開始。育てた鶏を解体して食べる様子が伝わった。
鶏肉食の歴史は浅い
このような背景があったと4代目は言う。
そして終戦から3年後。戦地から復員した2代目(大輔さんの祖父)が、卵を産み終えた年老いた鶏の肉を売ろうと試みたそう。
2代目の山下利雄(としお)さん
「まだ鶏肉を食べる文化はなかったんですが、年老いた鶏だけは食べていたそうです。それを売ろうと。当時、開通したばかりの京浜東北線に乗って上野から伊勢佐木町にまでやって来ていたんですね。鶏肉をドラム缶に詰めて運んでいたらしいです」
上野から伊勢佐木町へやって来た!
驚く。
鶏肉食文化は比較的に新しく、伊勢佐木町は始まりの一端でもあるじゃないか。
「はじめ、恐らくは日本人ではなく、外国人相手だったかもしれません」と4代目。
この鶏肉が評判を呼ぶ。やがて路面店だったものが、当時あった漬物屋の「梅屋」という店の軒先を借りることに。
伊勢佐木町で売られる鶏肉が「梅屋の鶏肉」と呼ばれるまでになった。
1946(昭和21)年の伊勢佐木町
梅屋跡は現在、ソフトバンクになってます
始まりは「梅屋」。屋号は漢字表記。現在は平仮名交じりの「梅や」。
名前をそのまま残したのは間借りしていたから。では「梅屋」はどうなったのか? 残念ながら知る者がいない。
移転したのか? 店を畳んだのか? いつからないのか? 分からない。
商機を掴んだ2代目は居を上野から伊勢佐木町へ移す。間借りしていた軒先から少し離れた場所へ。
新しい店舗兼住居は吉田町の和食店「登良屋」の場所にありました!
そして現在の店舗は1953(昭和28)年に竣工
外国人相手の商売から始まった梅やの歴史。これは同時に、日本人の鶏肉食文化の始まりでもある。
2代目の利雄さんは鶏肉を売るため、さまざまな試みをしている。
仲間とともに食鳥協会を立ち上げたり、アメリカやヨーロッパ諸国に鶏肉食文化や生産ラインを勉強するため使節団に加わったり、非常に精力的に行動をしている。
フランスの加工工場を見学したときの写真
帰国後には神奈川県秦野市に自社工場を作り、生産ラインを確立。さらには消費者のためにと、レシピ開発や啓蒙活動も。
今から50年以上前。小冊子を作り、鶏肉の美味しさや調理方法を紹介
お店のPRにレシピ掲載・・・
横浜の名店・レストランと組んで鶏肉料理の啓蒙活動
港町・横浜の写真に、調理器具の広告まで載っている
フランス滞在時の、チョイとお澄ましな利雄さん
2代目の利雄さんは、さぞやパワフルな方だったのだろう。そして少し先が見えていたんじゃないか? 食の欧米化や高度経済成長が。
埋もれてしまっていたけど、そんな横浜人が伊勢佐木町を拠点に猛烈に駆け回っていたのだと思うと、ワクワクして仕方がない。