地図から消えた幻の島「山瀬町」がかつて新山下にあった?
ココがキニナル!
神奈川近代文学館のパンフレット「YOKOHAMAと谷崎」の地図にある、昭和の地図にはない埋め立て地か島のような「山瀬町」という地名は本当にあったのでしょうか(koihigeさん)
はまれぽ調査結果!
大正時代の地図で山瀬町を確認。埋め立てた後に山瀬町と名付ける予定だったと思われるが、公式な記録としては残っていない。
ライター:ほしば あずみ
山瀬町を発見?
現在の新山下付近を山瀬町とするのは、1913(大正2)年の「大正調査番地入横浜市全図」。第四有隣堂(現在の株式会社有隣堂)が発行したこの地図は、調査の発端となった「YOKOHAMAと谷崎」で用いられた地図のもとになったもの。
「YOKOHAMAと谷崎」は1920(大正9)年刊の「訂正9版」を参照しているが、さかのぼる事7年前の地図で山瀬町はどのように描かれているかというと・・・
山瀬町/埋立地として描かれている(横浜中央図書館所蔵)
この地図の右上には「横浜全市町名番地一覧表」があり
「山瀬町」は「新設町名」の欄に明記されていた
「自/至(起点と終点)」は「未定」となっており、まだ正式な町ではない事がうかがえる。「山瀬町(仮称)予定地」といったところだろうか。
ところで、山瀬町まわりの「埋立地」を描いているのはこの版のみ。翌年以降この地図は「YOKOHAMAと谷崎」のように、砂洲に山瀬町と書いた状態で版を重ねる。
この場所の埋立工事に着手するのは「横浜市史稿」によると1915(大正4)年。まだ埋め立てていない現状に即した表記に替えたのかもしれない。
関東大震災時(1923)年の航空写真。破線内が現在の新山下町(横浜中央図書館所蔵)
だが実際に埋め立てられると、町は山瀬町ではなく新山下町と命名された(現在の町名は新山下1丁目~3丁目)。
山瀬町(仮称)が何故新山下町に変わったのか、文献をあたったが明快な答えは得られなかった。1920(大正9)年当時の戦後恐慌(第一次世界大戦後の不況) などの混乱が関係しているのかもしれない。
もう少し何かわからないか、改めて「YOKOHAMAと谷崎」の地図を眺めてみる。
この「内田造船所」がキニナル
山瀬町の端にぽつりとある「内田造船所」の文字。実はこれが記されているのは、1920(大正9)年刊の「訂正9版」のみなのだ。
「内田造船所」は何か知っているのではないか? 調べてみると・・・