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かつて相鉄線の上星川と西谷の間に「幻の駅」があったって本当!?

ココがキニナル!

かつて相鉄線の上星川と西谷の間に「幻の駅」があったと聞きました。いつ頃まであったのかと、なぜ廃止されたのかを調べてください。(BANDO_ALFAさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

幻の駅は「新川島駅」。理由は定かでないが、資料から推測すると戦時中に影響を受けて休止となり、再開されることなく1960年に廃止になったようだ

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ライター:田中 大輔

昭和初期、新川島駅の誕生



もちろん相模鉄道にも問い合わせてみたが、当時を知る方や社史以外の特別な資料は残っていないそうだ。そのため、図書館に出向きいろいろと資料を漁ってみることにした。

1987(昭和62)年に作られた相模鉄道の社史『相鉄七十年史』をひも解くと、「1930(昭和5)年9月10日には新たに天王町、常盤園下、新川島の3停留場が完成した」と書かれている。翌月には鶴ヶ峰駅も開業したという年の出来事だ。
 


常盤園下駅は現在の和田町駅の場所にあった

 


鶴ヶ峰駅とは1ヶ月違いの兄弟だったようだ


この当時、現在の相鉄本線は神中鉄道の路線で、ご存じの方も多いだろうが相模鉄道の路線は現在のJR相模線であった。両社が合併するのが1943(昭和18)年のことなので、新川島駅はもともと神中鉄道の駅だったということになる。

新川島駅の隣、西谷駅は神中鉄道が開業した1926(大正15)年の12月に開業。逆側の上星川駅も同じ日に星川駅という名前でスタートしている(1933〈昭和8〉年に上星川駅に改称)。
つまり、新川島駅は始めから両駅に挟まれた場所で産声をあげたというわけだ。
 


当時隣にあったのは“かみほしかわ”ではなく“しんかわしま”だった


『神中線御案内(発行年不詳。ただし、内容から昭和初期のものと推測できる)』というパンフレット型の資料によると、横浜駅から新川島駅までの運賃は10銭(昭和初期の貨幣価値は10銭=350円程度)だったようだ。ちなみに当時の路線の端から端、横浜から厚木で65銭という時代である。

『保土ケ谷区郷土史』に目を移すと、当時の乗降者数が記録されている。
1935(昭和10)年には2万1459人の乗車客、2万2900人の降者客があったらしく、1日の平均乗降者数は121人としている。

上星川駅の1日平均乗降者が362人、西谷駅では85人とあるから、隣接駅と比べて駅の規模が極端に大きかったり小さかったということはなかったようだ。



記録にも残っていない廃止の理由とは



この新川島駅がいつごろその機能を失ったのか。
その答えも『相鉄七十年史』にある。結論から言うと、1960(昭和35)年8月1日に「休止中の新川島、二俣川、二ッ橋駅の営業廃止」と書かれているのだ。

だから、正式に廃駅となったのはこのとき。
ただ、“休止中の”とあるように、それ以前から駅としての機能が果たされていなかったことが分かる。
 


踏切脇のこのスペースが駅だったとの情報もあった


ただし、『保土ケ谷区史』には「戦時中廃止」とある。
相鉄の社史が昭和35年と言っている以上そちらが公式の記録ではあるのだが、これが休止されたタイミングを指しているのかもしれない。

『相鉄七十年史』以前に作られた社史『相鉄五十年史』にはその当時の運賃表がまとめられているのだが、大塚本町駅(1975〈昭和50〉年廃止。現在のかしわ台駅東口)などは載っているのに対して新川島駅は記載されていない。このことからは、1945年には駅として扱われていなかったと考えることもできる。
 


1945年ごろも電車は止まることなくビュンビュン行き交っていたのだろうか


実をいうと、駅が廃止された理由についてもハッキリとした答えは見つからないものの、戦争中に休止されたというのが事実であれば、その影響を受けたと考えるのが自然なのかもしれない。

特別な時局下にあって、国からは輸送力増強を求められるし、一般客の乗降にも制限がかかる。さらに、相模鉄道は戦時中に神中鉄道を吸収合併したわけだが、直後の1944年に本線とも言える現在のJR相模線を国に強制買収されている。

当然、経営にはいい影響を与えるわけもなく、東急電鉄への経営委託につながっていく。
想像ではあるが、こうした環境下で営業効率の悪い駅を休止しようと考えたとしても、なんら不思議ではないわけである。



取材を終えて



昭和の初期から使われ始めたこの新川島駅だが、『相鉄七十年史』を読み進めても、これといって取り上げられていることはない。

正確な廃止理由は分からなかったが、戦争の影響を受けた休止と、戦後も再開の必要がないとの判断があったのではないだろうか。

資料によっては、営業開始や廃止についての記載がされていない年表もある。
近所に住む人には便利なものだったに違いないが、つまるところ、取り立てて重要な駅ではなかったのかもしれない。

もし、往時の駅の様子を知っている方がいれば、ぜひ編集部までご連絡をいただきたい。


―終わり―
 

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  • 戦時中に廃止、というのが理由を推測したくなります。1943年に相模鐵道(現在のJR相模線)が神中鐵道を吸収合併したのは経営を強化するためだった。それは裏を返せば、合併しなければ苦しかったという事でしょう。にもかかわらず翌年にはお国に相模線を徴収されてしまい、残った神中線も終戦直前に事実上、東急の手中に収まってしまった。そんな苦しい中で戦時中はエネルギー不足にも襲われ、石炭は高価なので汽車はほとんど平坦な区間の運行だけにとどめ、(側線など列車入れ替え設備があった)西谷から西の区間は、勾配がきつくなる区間にも関わらず木炭車で運行した。そんな状況ではいくら横濱と新川島までがほぼ平坦であっても、新川島から始まる勾配(並行する国道16号も、八王子往還新道=西谷商店街の中央通り も、新川島駅跡から梅の木交差点まではきつめの上り坂)は石炭の大飯喰らいとなり、悩みの種だったはず。【前投稿へつづく】

  • 【投稿のつづき】ましてや上り坂の直前であるこの新川島駅に停車でもしようものなら、ちょっとやそっとのエネルギー消費(石炭の釜入れ)では坂を昇れず、動けなくなる。だからといって新川島駅は線路の入れ替え設備がなかったはずだから、ここを列車の終点に設定できず、木炭車を使った節約作戦も当駅から西ではなく西谷駅から西に運行設定せざるを得ない。こんな訳で、いくら西谷より乗降客が多かったとしても新川島駅に停車させることも難しくなり、木炭車乗換え始発駅にもできないのだから、休止駅にせざるを得なかった。そしていったん休止された駅が再度営業開始された例は稀。結局廃止に追い込まれた…というのが私の憶測です。なお、この木炭車の話は数年か10年ほど前の相鉄瓦版に掲載されています。

  • あれ?常盤園下って現在の和田公園とバス待避所付近にあったんじゃなったっけ?

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