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横浜市港北区・師岡熊野神社の「血の池」が埋められた理由とは?

ココがキニナル!

『師岡熊野神社』には、『いの池』『のの池』があり『ちの池』は埋められてしまったとのこと。なぜそのようなことになったでしょうか?また現在はどうなっているのでしょうか?(jojoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「ちの池」の水は農業に使われていたが、周囲が住宅地となったため、子どもが池に落ちては危ないという理由で埋められた。現在は公園になっている。

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ライター:橘 アリー

池には伝説が!?


 


境内には、階段を上っていく
 

境内では、現在、改修工事が行われている
 

改修工事の説明の看板
 

神社の事務所でお話しを伺った




まずは「いの池」について



「いの池」は、ひらがなの「い」の形をしていることから、いつの時代からなのかは不明だが「いの池」と呼ばれるようになった。

「いの池」の水をさらうと雨が降るという言い伝えがあり、昔は、池で雨乞いが行われたそうだ。

また、遠い昔に、熊野神社の権現様が悪者を退治した時に、弓矢で片目を射られてしまい、その時に、「いの池」に住んでいた鯉が権現様のために自分の片目を差し出した、という「片目の鯉」の伝説もある。
 


片目では無いだろうが、「いの池」には小さな鯉も泳いでいた




次に「のの池」について



「のの池」も、ひらがなの「の」の字のような円の形になっていることから「のの池」と呼ばれるようになった。

「のの池」は、どんな日照りでも涸れることが無いと言われていて、その昔、社殿が落雷によって出火したとき、この池の水で御神体が守られたと言われているそうだ。
そして、毎年1月14日に行われている筒粥神事(つつがゆしんじ:お粥を煮て、一年の吉凶を神様に伺い幸せを祈る)のとき、この池の水を使うそうである。
 


「のの池」は、社殿の裏手にある
 

池の周りでも工事が行われていた

 
池は、日照りで涸れることは無いようだが、工事は水を排出して行われていたので、池に水はなかった。
しかし、底の方からは水が湧き続けていて、池の底はぬかるんでいた。やはり完全に涸れることはないようだ。
 


直径1.5メートルくらいの小さな池である


先述の「いの池」のように特徴的な形をしているわけではなく、
ひらがなの「の」の字のように円を描いた形をしている。
 


この工事は、池の上の崖が弱くなっているので、その補強のためだそうだ

 
そして、8月24日の神社のお祭りの前には完成予定とのこと。
お祭りが行われる季節には、水を湛(たた)えた「のの池」が見られそうだ。



最後に「ちの池」について



続いては、キニナル投稿にあった「ちの池」について。
「ちの池」の名前の由来は、その形からでは無く、悲しい伝説がもとになっている。

時代は不明だが、昔、身重の巡礼の女性が池の近くを通りかかった時、産気づき子どもを産み落とした。そして、その苦しみから、子どもを手にしたまま池に身を投げた。
その翌朝、池の水は、真紅に染まっていた。
それから、誰からともなく「ちの池(血の池)」と呼ぶようになったそうだ。

そして、「ちの池」が埋められたのは、1969(昭和44)年である。
池の水は、農業用の灌漑(かんがい)などに使われていたそうだ。しかし、周囲が住宅地として開発されるにつれ、田んぼがなくなって行ったため、その役目を終えることになった。そして、子どもが落ちると危ないという理由から、埋め立てられることになったそうだ。
 


年代は不明だが、「ちの池」の様子

 
「いの池」「のの池」「ちの池」の水は、人々の生活に使う水として使われていたために、それぞれの文字をとって、「いのちの池」と呼ばれているそうだ。

なお、「いの池」と「ちの池」の場所は現在は神社の土地では無いが、昔は、池は三つとも、もともと神社の土地だったそうだ。

そして、「ちの池」の跡地には、現在、「大曽根第二公園」という名前の公園があるそうだ。
「ちの池」は、悲しい伝説が伝えられるような暗い雰囲気のところだったのだろうか。

「ちの池」の跡地を確認しながら、ご近所で当時の様子を聞いてみることに。