生麦の人は当然知ってる!? 日本の近代化の発端となった生麦事件について教えて!
ココがキニナル!
生麦事件を取材してください。(jckさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
生麦事件は、1862年に現在の鶴見区生麦で起きた薩摩藩士によるイギリス人商人たち4人を殺傷した事件。日本が近代国家に向かう発端となった出来事
ライター:橘 アリー
事件の当事者について
イギリス人商人たち4人は、上海在住のイギリス人商人のチャールズ・レノックス・リチャードソン、横浜の居留地で生糸商を営むウイリアム・マーシャル、香港から横浜に遊びに来たマーシャルの義理の妹マーガレット・ボルデイル、マーシャルのビリヤード仲間でハード商会の生糸検査員のウッジロップ・チャールズ・クラークである。
この観光の提案をしたのは、マーシャルであった。
香港から遊びに来た義理の妹に、日本の素晴らしい景色と文化を見せてあげようと馬での遠乗りの計画を立て、二人だけでは寂しいのでクラークを誘った。
マーシャルの曾孫にあたる女性も「生麦事件参考館」を訪れた(『生麦事件参考館』資料より)
そして、マーシャルのこの観光の計画を、マイソン商会(生糸を扱う貿易会社)の副支配人であったガワーが知り、友人のリチャードソンも一緒に連れて行ってほしいと頼んだ。
一方、薩摩藩側は薩摩藩の藩主・島津忠義(しまづ・ただよし)の父である島津久光と約400名の薩摩藩士であった。
島津久光の肖像画の様子(『生麦事件と横浜の村々』より)
島津久光は尊王攘夷の志士を鎮めるため、千人ほどの藩士とともに京都伏見にあった薩摩藩の藩邸に滞在していた。そこから、約400名の藩士を引き連れ、江戸に幕府との交渉に来ていた。
歌川貞秀が描いた1863(文久3)年の生麦を通る行列の様子『空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀』より)
その交渉は、公卿(くぎょう)の大原重徳(おおはらしげとみ)が朝廷の特使として江戸へ赴くことになっていたので、それに先駆けてのものであった。
そして、幕府から“勅使を尊奉する(天皇の使者を尊重します)”という回答を得たので、生麦事件の当日である9月14日に江戸を発って帰路についた。
薩摩藩の行列は、約400名にも及んだので、先頭の鉄砲組から乗換駕籠(のりかえかご:宿場で乗り換える駕籠のこと)まで長々と続いていたようだ。
その中には、幕府には内緒にしていた二門の小砲が梱包されて大八車に乗せられていたそうである。
このような薩摩藩の大行列と、馬に乗った4人のイギリス人商人が生麦村で行き合い、殺傷事件が起きてしまった。
事件の状況は?
まず、イギリス人商人たちは、ガワーが4頭の馬を居留地から野毛山を越えて戸部・平沼・浅間下・台町を通って神奈川の宮の河岸に用意させ、4人はハード商会からボートで横浜の湾内を横切り、神奈川に渡って馬に乗った。そして、川崎大師を目指して生麦村までやってきた。
明治時代の生麦村の様子(『生麦事件参考館』資料より)
薩摩藩の行列は、午前中に東京・三田の薩摩藩の屋敷を出て、川崎の宿場で昼食をとったあと生麦村にやってきた。
このようにして、イギリス人商人たちと薩摩藩の行列が行き合ったのは、午後2時過ぎのことであった。
薩摩藩行列の最初の鉄砲組は2列に並んでいたので、馬に乗ったイギリス人商人たちと難なく行き交うことができたが、鉄砲隊の後の行列は道いっぱいに広がっていた。
イギリス人側は、2列に並んでいて、先頭の道の内側にリチャードソン、その横にボルデイル、その10メートルくらい後方にマーシャルとクラークが続いていた。
薩摩藩の行列とすれ違うために、リチャードソンは馬をボルデイルがいた左側に寄せたので、リチャードソンの馬はボルデイルの馬と接触して、ボルデイルの馬は道路の溝に足が入ってしまった。そこで、リチャードソンとボルデイルは馬を溝から戻そうとして、薩摩藩の行列の中に入ってしまう。
その様子を見た島津久光の駕籠の右後方にいた藩士の奈良原喜左衛門(ならはら・きさえもん)は、リチャードソンたちの前に駆け込んで行き“引き返せ”と合図をした。
生麦事件を描いた錦絵(『生麦事件参考館』資料より)
リチャードソンはその合図を理解できなかったが、後方にいたクラークが危険を感じて“引き返せ”と叫んだ。
その声に気付き、リチャードソンとボルデイルは引き返そうと馬の向きを変えようとするが、薩摩藩の行列が道いっぱいに広がっているので上手くいかず、さらに行列の中へ深く入り込んでしまった。
行列は進めなくなってしまったので、奈良原喜左衛門は、リチャードソンたちが行列を妨げたと勘違いして“無礼者”と叫びながら刀を抜いてリチャードソンに斬りつけた。
これが合図となり、ほかの4人の藩士が駆け付けてきてリチャードソンとボルデイルに襲い掛かった。
ワーグマンが描いた生麦事件の絵の様子(『横浜外国人居留地』より)
リチャードソンは容赦なく斬り付けられたが、藩士たちは女性を斬ることに躊躇(ためら)いがあったようで、ボルデイルは被っていた帽子が飛んで前髪を斬られただけだった。
ボルデイルは必死に馬を駆り、その場を逃れて当時アメリカの領事館が置かれていた神奈川の本覚寺までやって来たが、馬は階段を登れなかったので、馬が居留地から神奈川まで来た道を引き返し、居留地にあるガワーの家まで辿り着いた。
神奈川区にある本覚寺
ボルデイルに怪我は無かったが、大量の血を浴びていた。
ボルデイルは、水を飲まされるなどした後、落ち着きを取り戻し、ほかの3人は殺されているだろうと報告したそうだ。
一方、後方にいたマーシャルとクラークは複数の藩士たちに左腕や左肩を斬りつけられた。それでもアメリカ領事館までたどり着くことができ、当時、神奈川の宗興寺で施療所を開いていたヘボン医師の手当てを受けて命を取り留めた。
歌川貞秀が描いた1859(安政6)年当時の神奈川の様子。赤丸の辺りに宗興寺がある
(『横浜外国人居留地』より)
なお、リチャードソンは、奈良原喜左衛門に左肩下から腹部にかけて斜めに斬りつけられ、腹部から流れる血を左手で押さえながらも必死に馬を駆り逃げたが、行列の先頭にいた鉄砲組の久木村利休(くきむら・りきゅう)に再び斬りつけられた。
その後、リチャードソンは行列からは逃れることができたが、休み処の前で臓腑(ぞうふ)のようなものを落とし、それでも馬を走らせたが程なく力尽きて落馬した。
2013(平成25)年に日本で初めて公開された生前のリチャードソンの様子