生麦の人は当然知ってる!? 日本の近代化の発端となった生麦事件について教えて!
ココがキニナル!
生麦事件を取材してください。(jckさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
生麦事件は、1862年に現在の鶴見区生麦で起きた薩摩藩士によるイギリス人商人たち4人を殺傷した事件。日本が近代国家に向かう発端となった出来事
ライター:橘 アリー
事件の状況は?(続き)
臓腑のようなものを落として逃げて行ったので“落馬するに違いない”と6名の藩士が後を追って行き、息も絶え絶えのリチャードソンを発見した。
6名の藩士のうちの一人の海江田武次(かいえだ・たけじ)は、リチャードソンがもう助からないと思い、リチャードソンを畑の中へ引き入れ“許せよ、今、楽にしてやるから”ととどめをさした。
リチャードソンの遺体を残して藩士たちが去った後、生麦村の住人で近くで茶屋を営んでいる甚五郎の妻が、哀れに思いリチャードソンに2枚の葦簀(よしず)をかけてあげたそうである。
生麦事件の詳細は、このように、書くも辛い内容であるが、生麦村の人の優しさには救われる思いがする。
当時の東海道沿いの生麦村の地図(『生麦事件参考館』資料より)
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リチャードソンの遺体は、事件があった当日に、英国公使館付けの医師ウイリアムズたちによって運ばれて行った。
ウイリアムズが兄に宛てた手紙の文面に「被害にあった3人と一緒にリチャードソンを斬殺した一行のそばを通り抜けた。銃を持っていたが、すんでのところで発砲しそうになった場面が一度あった」とある。
間違えれば、また大惨事になった可能性もあったようであるが、そのようなことにならなくて、本当に良かった。
現代の地図に照らし合わせた事件現場の図(『生麦事件参考館』資料より)
現地の現在の様子を見て行くと
イギリス人商人たちは神奈川方面から馬で川崎大師を目指し
薩摩藩の行列は鶴見方面からやって来て
この辺りで遭遇した
イギリス人商人たちは斬られながらも馬で引き返し
3人は逃げきれたがリチャードソンはここで落馬してとどめを刺され絶命した
事件碑は1883(明治16)年に、鶴見神社の宮司であった黒川荘三(くろかわ・しょうぞう)氏が事件のあった土地を買い取ってリチャードソンが絶命した場所に建てられたが、その近辺が現在は工事中のため、少し離れた場所に仮移転されている。
事件碑を立てたころの黒川氏の様子(鶴見神社の資料より)
なお、2012(平成24)年9月に、リチャードソンの一番上の姉の曾孫にあたるマイケル・ウェイス氏が来日して事件碑の場所にも訪れていた。
『開港のひろば』にはリチャードソンの子孫が横浜を訪れた様子が書かれている
事件碑が仮移転されている場所の様子
事件碑の様子
事件のその後について
事件の後、薩摩藩側は、三田の薩摩藩屋敷に山口金之丞(やまぐち・きんのじょう)を遣わし“帰路、異人に遭遇し異人が無礼を働いたので、奈良原兄弟(兄が喜左衛門で弟が幸五郎<こうごろう>)と久木村利休・海江田武次などが殺傷した”と詳細を報告した。その報告を受けた留守居役の西築右衛門(にしちく・えもん)は、手を下した藩士たちは将来を嘱望されていた者ばかりだったので、幕府に報告する時には、架空の岡野新助の仕業と報告をした。
それによって、実際に手を下した者たちは切腹を免れた。
1863(文久3)年ごろの薩摩藩士の様子(『生麦事件と横浜の村々』より)
その後、奈良原喜左衛門は京都に戻ったあと間もなく病気になり、三年後に他界する。弟の幸五郎は、8代目の沖縄県知事を務め、教育問題に取り組み識字率を92%にまで引き上げた(当時の日本一といわれる)。
当時19歳だった久木村利休は、1937(昭和12)年に95歳で天寿を全うしたが、その前年の1936(昭和11)年に、病院のベッドの上で生麦事件について詳細を語った。
リチャードソンにとどめをさした海江田武次は、奈良県知事・京都府知事などの職務についていた。
一方、イギリス人商人たちはクラークは斬られた傷がもとで、生涯、左腕が上がらなくなったが、居留地の消防士として数年活躍し、事件から6年後に33歳で他界した。
マーシャルは、1872(明治5)年に鉄道開通式で外国人を代表して、明治天皇の前で祝辞を述べ、その翌年、44歳で他界した。
なお、リチャードソン・クラーク・マーシャルの墓は、山手の外国人墓地の裏門付近にある。クラークとマーシャルの墓は傷みがひどかったので、淺海さんが、2006(平成18)年に、二人のお墓を新設したそうである。
手前側がリチャードソンの墓で、右がクラーク左がマーシャルの墓
(「生麦事件参考館」資料より)
これで、生麦事件について詳細が分かった。
次に、生麦事件が及ぼした影響について。
生麦事件が及ぼした影響は!?
事件から5ヶ月後に、イギリスのラッセル外務大臣から、幕府と薩摩に対して賠償金の要求が出されたが、その時、14代将軍徳川家茂(とくがわ・いえもち)が江戸に居なかったため、老中格の小笠原長行(おがさわら・ながみち)が独断で1863(文久3)年5月9日に10万ポンドの支払いをした。
ちなみに、当時の10万ポンドを現在に置き換えると150億円くらいになるそうである。
そして、イギリスは薩摩藩に対し、犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償金2万50ポンドを要求したが、薩摩藩はこれに応じなかった。このため、イギリスは横浜から7隻の軍艦で鹿児島へ向かい、1863(文久3)年に薩英戦争が起こった。
薩英戦争絵巻の様子(『ドキュメント生麦事件』より)
この戦いで、薩摩藩はイギリスとの武力の差を痛感し、それまで唱えてきた攘夷鎖国の無意味さを思い知った。
そして、同じように攘夷実行という大義のもとに海峡を封鎖してフランス商船を攻撃し、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国から攻撃を受けた長州藩も外国の威力のすさまじさを知った。その後、長州藩は薩摩藩と手を結んで幕府を倒し、時代は明治維新へと移り、日本は近代国家へと向かって行くようになった。それゆえ、生麦事件は日本の近代国家成立の発端となったと言われている。
取材を終えて
生麦事件は、生麦にも影響を及ぼしていた。
生麦事件の後“イギリス人が攻めて来る”という噂がたち、生麦の人たちは、家財をまとめて親戚などへ身をよせるようになり、生麦には人がいなくなった。
その後、1週間、10日と時が過ぎて行ったがイギリス人は攻めてこなかった。
そこで生麦の人たちは、冷静さを取り戻し“生麦は事件の現場になっただけで何も悪くない。だから攻めてこないのだろう”と考え、村人たちは戻って来たそうである。
これは現在で言う風評被害のようなものであるが、生麦事件の壮絶さや時代背景を思えば無理もないような気がする。
ぜひ、これを機に生麦の地に足を運んで、当時に思いを馳せてほしい。
―終わり―
おじゃまねこさん
2015年04月08日 20時33分
生麦事件に関して事件発生から薩英戦争そして現状まで詳しくまとめていた学校の先生のサイト「未来航路」があったのですが残念ながらNot Foundになってしまいました。
ushinさん
2015年04月06日 20時34分
別に「無礼討ち御免」が正しいとは言わないけれど、「郷に入れば郷に従え」的な言葉って英語にもあったはず。未開のジャングルに探検に行っていきなり土俗民に襲撃されたわけではなく、当時の当たり前の日本の流儀を踏みにじった、被害者側の過失を無視していいわけではない。そして、力を背景に脅し取った賠償金「150億円」って、犯罪被害者への補償金としてはボリ過ぎだろ?
Franceさん
2015年04月05日 17時37分
生麦事件 吉村昭著を読むとよくわかります。既読されている方もおられますね。地元のことは、昔から営まれている方に話を聞くと別の観点から生麦事件のエピソードを知ることができるかも!?他の地でも外国人が辻斬りで犠牲になっています。そういう方のお墓参りをしてお祈りします。