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全焼した海軍料亭「小松」が歩んだ130年の歴史とは?

ココがキニナル!

燃えてしまった料亭小松について歴史や最近の事を詳しくおしえて(マイクハマーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1885年、横須賀市田戸(たど)に開業した料亭。横須賀海軍の将校が常連だったことから「海軍料亭」と呼ばれたが2016年5月、全焼。今後は未定

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ライター:やまだ ひさえ

「小松」との出会い



コマツが働き始めたころの横須賀は、ペリーの来航によって海軍力の増強の必要性を感じた幕府によって、1865(慶応元)年に横須賀製鉄所の建設が始まり、明治維新後の1872(明治5)年には海軍駐屯所が置かれた。

さらに、1884(明治17)年には海軍の艦船や人員などを統括する横須賀鎮守府が設置されるなど軍都としての歴史を歩み始めたときだった。
 


最新鋭の設備を誇った横須賀製鉄所(提供:横須賀市役所)
 

吉川屋にも海軍の将校たちが客として来店。コマツも彼らと親交を深めていった。

1875(明治8)年、浦賀沖で日本初の水雷発射試験が行われ、小松、北白川(きたしらかわ)、伏見(ふしみ)、山階(やましな)の4人の宮族が視察のために浦賀を訪れ、吉川屋に1泊した。

夜、酒宴に酌をするため出ていたコマツは、宮様たちに所望され指相撲の相手を務めることになった。当時のコマツは体重が18貫300目(約70㎏)という大柄な女性で、手も大きかった。華奢な宮様たちが適うわけもなく、連勝。

「わしは、お前の立派な体格(からだ)に肖(あや)かりたい。その代わりわしがお前に名を付けてやろう(原文ママ)」

勝負を楽しんだ小松宮が、まだ悦と名乗っていたコマツに自身の名字を与え、改名の手続きの指示まで出したのだった。申し出をありがたく受けた悦だったが、「小松」では畏れ多いと「コマツ」として届け、以来、コマツと名乗るようになった。
 


「コマツ」の名を与えた小松宮小松宮彰仁親王
 

改名後も吉川屋で働き続けたコマツが、自分の料亭を持ったのは1885(明治18)年のこと。浦賀に来て20年が経った38歳のときだった。

前年に横須賀鎮守府ができ軍港として発展と見せ始めていたこともあり、馴染みの海軍関係者から「行々横須賀は日本一の軍港になるから是非横須賀で開業しろ、俺達の遊び場を作って呉(原文ママ)」と勧められたことも大きな要因となった。

開業の場所として選んだのは市内の田戸(たど)海岸。現在の横須賀市公郷(くごう)だった。
 


埋め立てが進み、現在は田戸海岸はない
 

料亭「山本小松」が開業したころの田戸海岸は、白い砂浜に松林が広がる風光明媚(めいび)な景勝地だった。
 


猿島を望むこともできた
 

山本小松の様子を伝える図録(横須賀市史別編文化遺産より)
 

当時の横須賀には、まだ、料亭や料理屋が少なく、連日のように海軍関係者の宴席が開かれていた。そのため1893(明治26)年には、増築が行われた。

このとき親方として現場を仕切ったのが、小泉純一郎(こいずみ・じゅんいちろう)元総理の祖父であり、後に衆議院議員になり逓信(ていしん)大臣となった小泉又三郎(こいずみ・またさぶろう)だった。
 


「山本小松」増築の指揮にあたった小泉氏
 

やがて日本は、日清・日露戦争に突入していく。小松では、軍艦の出陣前には勝利を祈願する宴席が、帰港後には凱旋を祝う祝宴が、連日のように開かれていた。

「お母さん達者かね」「お母さんまた来たよ」と、士官たちはコマツに声をかけながら店を訪れたという。このころからコマツのことを「海軍おばさん」、料亭も「海軍料亭」と呼ばれるようになったといわれている。

隆盛を極めた小松に転機が訪れたのは大正時代になってからだ。田戸海岸の埋め立てが行われ、景勝地ではなくなったこと。さらに第一次世界大戦後の世界恐慌の影響で客足が遠のいたのだ。

しかし、海軍の軍人たちに親しまれてきた小松の閉店を惜しむ声は多く、コマツは、移転を決意。現在の地である米が浜に400坪の土地を購入。新店舗の建設に乗り出した。
 


米が浜も景勝地として知られていた
 

米が浜の新店舗(撮影:のりまき
 

1923(大正12)年、新店舗が完成。小松は、再び横須賀海軍の士官たちでにぎわいをみせるようになる。

海軍おばさんと慕われ、海軍料亭として士官たちを見守ってきたコマツだが、1943(昭和18)年4月17日、海軍の衰退を知ることも、日本の敗戦を知ることもなく、96歳の天寿をまっとうした。