戦時中、三溪園の辺りは海軍の要塞地帯だったって本当?
ココがキニナル!
間門から八聖殿にかけて海軍の要塞地帯で、高射砲陣地や地下軍需工場がありました。八聖殿下の海岸には多数の洞窟入口があり、震洋の出撃基地か真偽を調べて(yuuhodouさん)
はまれぽ調査結果!
戦時中三溪園の周囲に地下軍事工場や高射砲の陣地があり、水上特攻兵器の基地も存在した可能性がある。
ライター:小方 サダオ
郷土史家の語る本牧の要塞基地の様子とは(つづき)
高射砲陣地に関して伊波さんに伺うと「八聖殿の近くにあった小野園(貿易商・小野光景〈おの・みつかげ〉の別邸)のあたりが要塞の中心地でした」と話す。
小野園の崖下にも穴が開いている
現在の小野園の崖下のあたり
また、高射砲は現在の県立緑ヶ丘高校のあたりにも設置されていたと教えてくれた。
さらに本牧の空襲に関して興味深い話が聞けた。
1945(昭和20)年5月29日に、米軍は人家を目標にした焼夷弾による横浜大空襲を行った。この空襲の目標は、東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校(現在の大鳥小学校)の5ヶ所だったそうだ。
5月29日の横浜大空襲
大鳥小学校
本牧山頂公園の近く(Googlemapより)
さらに同年6月10日には、金沢区富岡の海軍航空基地や京急の駅を攻撃したと思われる部隊が、本牧の要塞や三溪園などの崖のある海岸一帯を標的に爆弾攻撃を行った。
6月10日にB29爆撃機やP51戦闘機などによる爆撃があった
終戦直後の本牧の様子に関して伊波さんに伺うと「進駐軍は本牧からも上陸をはじめたようで、本牧が最初の接収地になりました。また旧日本軍の傷痍(しょうい)軍人(戦争で身体障害などになった元軍人)が米兵の前で募金を行っているのがみっともなくて、『あの格好いい軍人の姿はどこへ行ったんだ』との思いで見ていました。また女性は米兵相手の売春婦などをしていて、子ども目線ながら、大人への不信感を持ちました」という。
要塞地帯になった理由について伺うと「本牧岬は、千葉の富津岬と同様、東京湾に突出していて、湾を守護する要塞としては格好の場所なのです」
本牧岬(青矢印)と千葉県の富津岬(緑矢印)
「幕末には幕府は鳥取藩に本牧の警備を命じ、本牧は首都防衛の要所でした」
東京湾に突き出た本牧岬
1855(安政2)年の武州本牧之図。本牧の岬には番所や砲台が置かれた
「ペリー来航のときも『黒船を横浜で止めろ』という幕府からの命令でした。そのため、横浜は異文化のスタート地点と言われますが、地元民にとっては東京への外国人の流入を防ぐために犠牲になってきたともいえるのです」と伊波さんはコメントしてくれた。
海に突き出た本牧の岬は、幕末の時代から湾の警備にとって要所であったのだ。
戦時中の三溪園について伺う
次に周囲に軍事設備などがあった三溪園を訪れ、参事の川幡留司(かわばた・りゅうじ)さんに話を伺った。
参事の川幡さん
「現在本牧山頂公園がある和田山には高射砲とレーダー基地、三溪園近く大里町の小野園には東部4101部隊本牧隊と呼ばれる部隊があり、16mm4連発高射機関銃が備えられていました」
「横浜大空襲(1945年5月29日)後の6月10日に爆弾攻撃があり、三溪園はその被害を受けました。しかし直撃ではなく、流れ弾や爆風による被害が多かったのです」
横浜大空襲では三溪園(青円内)の被害は少なかった
「園内の建物に大した被害はなく、修復もしやすいものでした。それには理由があり、ラングドン・ウォーナー(戦前、岡倉天心のもと日本美術を学んだ東洋美術の研究家)という人物が関係しているといわれています」
「小説家の志賀直哉(しが・なおや)が奈良の友人に宛てた1945(昭和20)年7月31日の手紙には『うわさでは、ウォーナーという博物館の役員が奈良と京都は爆撃しないようにとトルーマン大統領に進言したら、“考慮に入れておこう”と答えたという。敵ながら文化を尊重すること感心。ただしこんな話評判になると軍の施設ができるかもしれず、ご用心』とあります」
「戦前、三溪園の当主(原三溪)はウォーナー氏に園内を案内し、美術品を見せたりしました。そこでウォーナー氏が三溪園の爆撃回避を進言した可能性も考えられます。三溪園は製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三溪(原・富太郎)が、東京湾に面した谷あいの地に造り上げた広さ約17万5000平方メートルの日本庭園で、世界中の人たちに美を見せる目的に無料で開園したものです」
かつて来園者に無料でお茶をふるまっていた初音茶屋
「三溪園は、24時間一般に開放され、無料でお茶が用意され、『遊覧御随意』と英語で書かれた看板もありました」
開園当初の三溪園 門柱には英語で書かれた看板もあった
国の重要文化財の旧燈明寺(とうみょうじ)三重塔を望む景観
続いて川幡さんが園内の戦災の跡を案内してくれた。
戦時中爆風の被害に遭ったという、修復前(上)と修復後(下)の旧東慶寺仏殿
爆撃でなくなったという三渓園天満宮の狛犬の首
正面の藤棚のあたりに爆弾が落ちた
爆風で防空壕にいた人は亡くなったという入り口近くの防空壕跡
ウォーナー氏の進言がもとで、米軍による三溪園の爆撃が回避されていたとしたら、戦時中の軍事優先の体制の中での軍部の良心的な決断であったといえよう。