戦時中、三溪園の辺りは海軍の要塞地帯だったって本当?
ココがキニナル!
間門から八聖殿にかけて海軍の要塞地帯で、高射砲陣地や地下軍需工場がありました。八聖殿下の海岸には多数の洞窟入口があり、震洋の出撃基地か真偽を調べて(yuuhodouさん)
はまれぽ調査結果!
戦時中三溪園の周囲に地下軍事工場や高射砲の陣地があり、水上特攻兵器の基地も存在した可能性がある。
ライター:小方 サダオ
当時の住民によって語られる戦争体験とは
さらに川幡さんの紹介で、古くから本牧住んでいる野村弘光(のむら・ひろみつ)さんに話を伺うことができた。
本牧にあった軍事施設に関して伺うと「現在立野高校の建つ山の地下にはレーダー用の真空管の地下工場がありました。1945(昭和20)年、私は近くの間門小学校に通学していましたが、講堂に何らかの機械が置かれているのを見ました」
「戦後になり、地下には総延長1kmの空間が広がっていることを知りました」
旧日本軍のレーダー
「今から3年前、Sさんという女性から軍人である父親が、高射砲の陣地内のサーチライトを照らす要員であったことを聞かされたことがあります。また八聖殿の裏山に旧式の二連式の機関砲が置かれているのが自宅から見えました」
今回の証言者による施設の地図。高射砲陣地(青丸)、地下軍事工場(赤丸)、崖下の海軍の基地(青矢印)
「また緑ヶ丘高校の山の上には高射砲がありました。また近くに監視哨(かんししょう:敵を見張る場所)が立っていたのです」と答えてくれた。
旧日本軍の高射砲や高射機関砲
空襲に関して伺うと「空襲には自宅で遭いました。50kgの焼夷爆弾が自宅に落ち、消せないと判断し、家族で三溪園の方面に必死で逃げました。焼夷弾は高温を発するため、自宅に戻ると金物以外は全て燃えていました」
横浜大空襲の被害を受ける本牧地区
野村さんの空襲時の避難ルート
東京都久我山にあった「15センチ高射砲」
また「ある空襲時、本牧上空の敵機に対して、曳光弾(えいこうだん)かロケット弾のような火の玉が、山の上から発射され、機体に着弾した光景を見たことがあります。機体は燃え上がり空中分解し、本牧沖に落ちました。低空飛来をしていたので迎撃できたのかもしれません」という。
横浜大空襲に参加した爆撃機B29
次にウォーナー氏が爆撃回避を進言した話に関して伺うと「それ関しては懐疑的な説があります。横浜は原爆投下のリストに載っていたのですが、通常爆撃の空襲を受けていたため除外されました。ウォーナーが進言に効果があったとしたら、原爆投下のリストに入らなかったのではないでしょうか」とのことだった。
鎌倉駅西口にある、歴史的遺産を救ったとされるウォーナー氏の碑
最後に「私のような戦争のもたらす惨状を知っている世代が少なくなっているため、今のうちに伝えておきたいと思っているのです」と答えてくれた。
取材を終えて
本牧岬は、三溪園のような文化的景勝地としても適所であり、同時に東京湾の防衛など軍事的にも都合の良い場所であったようだ。
ウォーナー氏の話の真相はともかく、ほぼ当時の姿のまま残る八聖殿と三溪園の姿が、戦時下を切り抜けて、文化的・芸術的存在が奇跡的に生き残る可能性を示しているかのように思えた。
戦前の姿を残す三溪園
—終わり—
yuuhodouさん
2016年09月17日 00時58分
八景のカズさん、さすが6段、的確で無駄の無いコメントだと思います。でも今現在、そう思う、そう思わないが同数(8票)なのですね、戦後71年(私も戦後生まれですが)しかたがないのですかね。
yuuhodouさん
2016年09月17日 00時48分
和田山辺りの石が円形に並べられた跡とは、和田山の丘入口から下がった所にある、蒲鉾状に石が露出しているのをおっしゃっているかと思います。これなら私も戦争と関係あるのかと思いましたが、調べてみると公園整備の時作られたもので、小動物に住家を提供するためのものだそうです。
濱俊彦さん
2016年08月03日 12時19分
本牧山頂公園の和田山のあたりに、石が円形に並べられた跡があります。ずっと「何だろう」と思っていたのですが、この記事を読んで「高射砲と関係があるかも」と感じました。今回の記事の内容は個人的にも知りたくて調べていたことだったので、とてもスッキリしました。どうもありがとうございます!それにしても、月並みではありますがやっぱり平和が一番ですね。