三浦半島に戦時中、「人間機雷」の基地があったって本当?
ココがキニナル!
「伏龍」の記事で衝撃を受け調べたら、人間魚雷「回天」基地が横須賀小田和、自爆ボート「震洋」基地が三浦小網代と油壺にあって空襲によると思われる戦死者が出ているみたいなので調べて(ホトリコさん)
はまれぽ調査結果!
横須賀市の小田和湾、三浦市の油壺、小網代、松輪に海軍水上特攻隊の基地はあり、油壷では6名が戦闘で亡くなっている
ライター:やまだ ひさえ
浦賀水道の守りの要、三浦市松輪の震洋特攻隊
三浦半島に水上・水中特攻基地が置かれたのは、1945(昭和20)年の4月から7月にかけてだ。
4月10日、油壷と小網代湾に「第27震洋隊」が配備
6月15日、三浦市の松輪(まつわ)に「第56震洋隊」が配備
7月25日、横須賀市の小田和湾に「第14回天隊」が配備
本土決戦に備えた配備だった
東京湾から相模湾へ、特攻隊の基地のあった場所を巡ることにした。まず向かったのは松輪(まつわ)。
今回の取材では、松輪にあった第56震洋隊岩舘(いわだて)部隊の記録本『海軍水上特攻隊震洋』の編者である木村禮子(きむら・れいこ)さんが同行してくださった。
木村さんご自身も戦争体験者だ
第56震洋隊の正式記録になっている
同書を執筆するきっかけとなったのは、木村さんが三浦地蔵尊三十三霊所御開帳巡りをした際、同地に水上特攻隊の基地があったことを知ったことだった。
これは、水上特攻隊の本部になっていた福泉寺(ふくせんじ)のご住職に計らいで当時の隊員の方や宿舎になった家の話や資料をまとめたものだ。
基地があった松輪の江奈(えな)湾
第56震洋隊は、5月25日に編成、6月10日に同地に配属された。
岩舘康男(いわだて・やすお)中尉を部隊長に、士官5名、下士官51名の搭乗員と、基地隊、整備隊員127名の181名の部隊だった。
第56震洋隊の搭乗員(同)
搭乗員は大半が予科練出身者。16歳、17歳の少年たちも多くいた。彼らは飛行機乗りになるために訓練を受けてきたのだが、戦局の悪化による飛行機不足のために、震洋隊に回された。
長崎県川棚町(かわたなちょう)で、2ヶ月間という短期間の訓練を終え、松輪に配属。本土決戦にそなえ浦賀水道を守る役目を担っていた。
元気盛りの少年搭乗員たちに岩舘部隊長が、よく注意していたことがあるという。「震洋の甲板には乗るな」ということだ。
甲板に乗ってはいけない(『写真集人間兵器震洋特別攻撃隊』より)
震洋はベニヤ板製。船底と側面は厚さが1センチだが、甲板は軽量化のためか資材不足だったのか、0.5cmほどの厚さしかなかった。元気な少年搭乗員たちが乗れば裂ける危険性もあった。
ましてや甲板の下には250kgの爆弾が搭載されている。そんな危険なものが47艇、湾に沿って配備されていた。
湾を囲むように格納庫が造られていた(『海軍水上特攻隊震洋』より)
格納庫(同)
ここに震洋が隠されていた(同)
取材した8月は木が茂り、内部を見ることはできなかった
戦争中、福泉寺に兵隊さんがいたと知っている人はいるが、それが特攻隊だと知っている人はいない。作戦の性質上、特攻隊であることは隠されていた。
特攻隊の存在を地元の人は知らない
今も彼らのことを記憶しているのが、部隊本部になった福泉寺のご住職の鈴木元奘(すずき・げんじょう)さんだ。
松輪の高台にある福泉寺
山門横の坂道は江奈湾に続いている
福泉寺は、1324(元亨4)年、三浦市・大浦湾で創建。1703(元禄16)年の大津波で本堂が流され、現在の地に移ったという市内でも屈指の古刹だ。
本部として選ばれたのは、松輪では同寺のほかに宿舎にできる場所がなかったからだという。
本部となった本堂は、1815(文化12)年に建てられたもの
本部が置かれた本堂内
ご本尊の観音様に祈りをささげながら、任務にあたっていた。
会議のほか余興なども行われた
本堂に隣接した8畳間が部隊長の部屋だった
伝令は奥のガラス戸越しに伝えられたという。
本堂の前では、毎朝、朝礼が行われた
縁側に部隊長が立ち、前に50人の搭乗員が並んだ
帝都防衛の最後の砦の1つだった同隊。敵機からの発見をさけるための夜間の訓練を続けられるなか、出撃準備、待機の命令がくだる。
8月1日午後9時30分のことだった。
恩賜(おんし)の酒で水杯をかわし、搭乗員たちは、夜の浜辺で静かに出撃の瞬間を待ったという。
聞こえてくるのは波の音とザリガニが歩く音だけだったそうだ
しかし、この時の出撃命令は、夜光虫を敵艦隊と間違えたことが判明。翌朝には解除になった。
またある時は、低飛行で飛ぶグラマン戦闘機の偵察を受けたこともあった。
丘の上、ぎりぎりの高さで飛行していた(フリー画像)
グラマンは1機。相模湾に向けて飛ぶグラマンを撃墜しようと、はやる若い隊員を抑えたのは岩舘部隊長だった。
基地の存在が知られてしまえば、本来の任務が果たせなくなる。また、震洋に着弾し1隻が爆発すれば誘爆を起こし、次々に爆発炎上してしまう。そうなれば地元の人に被害が及ぶし、最悪の場合は地形を変えるほどの大爆発になりかねない。
一瞬の判断が人も土地も守った
同隊は、一人の犠牲者をだすことなく終戦を迎えた。部隊長は、終戦の3日後には若い搭乗員たちを帰郷させ、残務整理のために自分は残ったという。
当時1歳5ヶ月だった鈴木ご住職はよく遊んでもらっていたのだとか
戦後、福泉寺では当時の隊員たちが集まり、慰霊祭が行われた。また、境内には記念樹と記念碑がある。
戦後60年を記念し建てられた
碑文の中には「闇夜に乗じて敵船団に体当たり攻撃を慣行する人間爆弾であった」と記されている。また、岩舘部隊長は「俺たちは、特攻兵器の部品の一部だった。そこでは人間ではなかった」と残している。
木村先生が松輪の震洋隊の記録を1冊の本にまとめたいと関係者に相談したとき、すぐには良い返事をいただけなかったという。その胸のうちには「特攻隊員なのに生き残ってしまった」という忸怩(じくじ)たる思いがあったのではと話してくれた。
この歌詞が彼らのそんな想いを如実に表しているのではと教えていただいた歌がある。
『震洋隊の歌』の3番の冒頭だ。
「あきらめしゃんせ わしゃ特攻隊よ
若き命を 蕾で散らすよ」
出撃すれば命はなかった(『写真集人間兵器震洋特別攻撃隊』より)