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三浦半島に戦時中、「人間機雷」の基地があったって本当?

ココがキニナル!

「伏龍」の記事で衝撃を受け調べたら、人間魚雷「回天」基地が横須賀小田和、自爆ボート「震洋」基地が三浦小網代と油壺にあって空襲によると思われる戦死者が出ているみたいなので調べて(ホトリコさん)

はまれぽ調査結果!

横須賀市の小田和湾、三浦市の油壺、小網代、松輪に海軍水上特攻隊の基地はあり、油壷では6名が戦闘で亡くなっている

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ライター:やまだ ひさえ

本土上陸の備え 三浦半島西海岸の特攻基地



油壺に本部が置かれた「第27震洋隊」は、米軍が相模湾から上陸した場合にそなえ配属。海岸に面して建つ東京大学の研究所内に本部が置かれた。
 


本部のあった東大の研究所
 

三浦一族の居城、新井(あらい)城址の下にある
 

同隊は、25隻の震洋艇を有し、搭乗員50名を含む184名の隊員で構成されていた。
 


東大の研究所の横に、震洋の足跡が残されている
 

急峻な坂の下に油壺湾が広がる
 

潮位を図る油壺験潮所、その横だ
 

震洋艇を接岸のための桟橋が残っている
 

震洋艇は陸地を挟んで反対側にのびる小網代湾に配備されていた。

当時は、里山として田んぼがあり、薪を集める人がいた森の斜面にそって、震洋艇の格納庫である横穴の豪が点在していた。
 


湾の奥には小網代の森が広がる
 

震洋艇の格納庫(『写真集人間兵器震洋特別攻撃隊』より)
 

現存する格納庫(提供:横須賀市市史編さん室)
 

湾に沿った道に、残されているものもある。
 


今は、土地の所有者が使っている
 

震洋艇を出入庫に使った通路もある
 

「第27震洋隊」は7月30日、石井四郎(いしい・しろう)部隊長ほか5名の准士官が、震洋艇に搭乗し特別命令で出撃。相模湾を航行中に敵戦闘機と遭遇。対空戦闘の末に6人全員が戦死した。

この出撃は隊員にも知らされていなかったため、部隊内に大きな衝撃が走ったという。
 


出撃はそのまま死につながった
 

小網代湾には、人間魚雷「海龍」も配備されていた。

全長26.3メートル、同体中央の翼によって水中を機動する「水中飛行機」として開発された、魚雷2発を搭載した小型潜水艇だ。
 


生産が容易で横須賀でも量産された
 

小網代湾には60隻の海龍が実践配備、湾内に係留されていた。
 


戦時中は海龍、今はヨットが浮かぶ
 

戦後、木村さんは海龍の元搭乗員から震洋と海龍の特攻の違いを聞いたという。

「海龍は決死だが、震洋は必死」

海龍は魚雷艇なので、魚雷が命中すれば帰還することも不可能ではない。しかし、震洋は爆装体当たり艇。連合国軍が「Suicide Boat(スーサイド ボート=自殺ボート)」と呼んだことでも分かるように、艇ごと敵艦船に突っ込んでいく。

体当たりした瞬間に大破。震洋の搭乗員たちは出撃したら生きて帰れないと告げられていた。



機能しなかった水中特攻隊



横須賀市の小田和(おたわ)湾。現在、海上自衛隊のある場所だ。戦時中、ここには武山(たけやま)海兵団が置かれていた。
 


敷地の向こうが小田和湾だ
 

1945(昭和20)年7月25日、ここに第14回天隊が配備された。

回天は、搭乗員自らが操縦して体当たりをする人間魚雷艇。脱出装置はなく、「必死」が前提の水中特攻兵器だった。
 


人間魚雷「回天」(フリー画像)
 

配備はされたが、そのまま終戦。部隊として展開をしていなかったため詳しいことは不明だ。

当時の武山海兵団は、一帯の本部だったため、全ての出撃命令も同海兵団から出されていた。震洋、海龍なども配備されていたので、回天がさらに加えられても不思議ではない。
 


歴史に「たられば」は存在しないが
 

米軍の本土上陸を水際で食い止めるため、三浦半島に展開していた水上・水中特攻隊全隊対し、8月18日に出撃するよう命令が出されていた。

もし、終戦があと3日遅かったら、さらに多くの命が失われていた。

生きては帰れない片道切符。出撃を前に、搭乗員たちの脳裏に浮かんだのは、懐かしい故郷の風景だったという。



取材を終えて



水上・水中特攻隊は、任務の性質から語られることが少なく、資料が残っていないことが多いと、木村さんの編書である『海軍水上特攻隊震洋』を監修した、元搭乗員の上田惠之助(かみだ・けいのすけ)さんが話していたという。

今回の取材が、彼らの存在を知る一助になれば嬉しい。


―終わりー
 

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  • 去る5月8日「第56回 震洋慰霊祭」を挙行致しました(毎日新聞参照)。遺構は、訓練本拠地でありながらわずかです。この地、長崎県東彼杵郡川棚町新谷郷(しんがえごう)に昭和42年慰霊碑建立の後、慰霊碑をお護りしております。訓練時教官だった「故 西村金三氏(NHKアーカイブス参照)と新谷郷により慰霊碑建立以降、慰霊祭を営んでおります。生還された隊員も御高齢で、今年は御遺族・関係者のみでの挙行となりました。しかしながらコロナ禍で3年ぶりの開催に際して、遠くは東京からの御遺族御参列もありました。 この記事は初めて拝読致しましたが、御地には数々の遺構も残り歴史を語り継ぐ貴重なものと感じております。私(戦時中生まれ)、幼少の頃に目にした基地全容と震洋の実物(現在、日本TV寄贈:実物大復元物展示)は未だに記憶にあります。この記事を読まれた方で、西端の地ではありますが一度御訪問頂ければ幸いです。

  • バックナンバーを読み返し、身近なところにこの様な史跡が残されているとは、と身が引き締まる思いでした。松輪も油壺も時折ドライブに出かけるロケーションです。次回訪問の際、今までとはまた違った視点からこの地に秘められた過去に触れてみたく、また、松輪についてご紹介のあった本は是非一読したく思います。大変貴重なレポート、ありがとうございました。

  • お前は武器だ、と生身の生きた人間を兵器そのものとした軍部の考え方に戦慄を覚えます。貧すれば鈍する海軍の末期症状ですね。戦争の論理を突き詰つめた非情・非人間の世界。6名の方を除く特攻隊の皆さんが死なないで終戦を迎えられたことにほっとしました。こんな兵器でない兵器の開発にあたった技術者はなにを考えていたのでしょうか。具体的で身近な戦争の傷跡、終戦後の震洋の後始末はどのように行われたのかも知りたい。

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