元ベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-秦裕二さん-
ココがキニナル!
2011年に退団した元横浜ベイスターズ選手、秦裕二さんのセカンドキャリアとは?(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
退団後、NPBやアメリカ独立リーグ、台湾リーグのトライアウトを経て、現在は富山GRNサンダーバーズの投手兼任コーチとしてチームを支えている
ライター:山口 愛愛
投げたい気持ちが人生を動かす
ベイスターズでプレーした10年間の中で一番思い入れのある登板は「初登板の甲子園」。2002(平成14)年9月7日の阪神タイガース戦で8回裏に登板し、1回を無失点に抑えた。高校時代の思い出の地に、プロ野球のユニホームを着て立てたのは格別の思いがあった。10月には横浜スタジアムで先発し、6回3分の1を2失点に抑え、プロ初勝利をあげる。
高卒ドラ1の投手に明るい光が差しファンも注目した。しかし、翌年のキャンプ中に肘を痛めたもこともあり、それから3年間は勝てない日々が続いた。
1軍と2軍を行ったり来たりするシーズンも
勝てなかった原因は「今考えると天狗になっていたところがあったと思う」と秦さん。
「1軍のときに相川亮二(あいかわ・りょうじ)さんや鶴岡一成(つるおか・かずなり)さんとバッテリーを組ませてもらい、学ぶことが多かった。バッターごとの配球を考えてなくて、野球の勉強が足りないと感じましたね。速い球を投げるだけじゃダメなんだと思った」と振り返る。
技術だけでなく意識や知識を若手に教えている
4年目に復活の2勝目を上げ、2011(平成23)年までに1軍では89試合に登板し、通算9勝を上げた。「苦しいシーズンもあったけど、先輩たちから学んで可愛がっていただいた」と思い出を語る。
「早出して自主練習をしていたら、石井琢朗(いしい・たくろう)さんや鈴木尚典(すずき・たかのり)さんに『今それをやってるから結果が出てるんだぞ。継続していけよ』と声を掛けてもらってありがたかったです」
鈴木尚典さんらの偉大な先輩方から声を掛けてくれてうれしかった
「秋のキャンプでは、金城龍彦(きんじょう・たつひこ)さんと同部屋になったことがあったんです。金城さんは元ピッチャーだったので、いろいろピッチングの話をしながら、部屋の中で2人でシャドーピッチングしたのが本当に良い思い出」と感謝を込めて嬉しそうに話す。
ホテルの一室でも金城さんと練習に明けくれた(写真は2013年取材時)
秦さんは常に向上心を持ち、2010(平成22)年にはサイドスローに近いフォームに変えるなど試行錯誤を続けたが2011(平成23)年は1軍に上がれず、この年の秋に戦力外通告を受けることとなった。その時の気持ちを正直に語ってくれた。
「あのころは受け入れられなかったです。若い選手を使うとか、チームの状況や方針があるのだろうけど、自分は上で成績を残したい気持ちが強くあって、不満ばかり言っていた。子どもだったな、バカだったなと後から思うんですよね。その年に戦力外になった大家友和(おおか・ともかず)さんにまぁまぁとなだめられて。今なら冷静に判断して役割や状況を受け止めることもできると思うけど」と秦さん。
「いろいろな意味で経験が足りなかった」
その後、トライアウトに臨み、現役続行を目指したがオファーはなく、大家さんとトレーニングを積みアメリカの独立リーグのトライアウトにも挑んだが所属チームは決まらなかった。
実はベイスターズから、引退してバッティングピッチャーとして球団に残る道も打診されていたのだが、秦さんはそれを断り、現役にこだわったのだった。
初めての挫折だったかもしれない。「アメリカのテストに落ちたときは、さすがに野球はもうダメかなと。テレビで坂本龍馬の特集をたまたま見て高知に1人旅にいこうと思った(笑)。でも1週間休んだら、せっかくトレーニングしてきたのにもったいないと思い直して、また練習を始めました。独身だしいいかと思って(笑)」。
野球へのこだわりは消えない
秦さんの心は完全には折れていなかったのだ。台湾のウインターリーグにも入団テストを受けに行き、野球を続けられる環境を探し続けた。ベイスターズを退団してから1年半が経ち、ようやく地に足がついた。